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母のことが知りたい|聴こえない母に訊きにいく|五十嵐 大

 すべてを詳らかにされるのが公正中立な世の中だとしても、それでもぼくは、この世には明らかにされなくていいこと、知らなくていいことがあると思っている。友人がついた嘘、パートナーの過去、家族の傷跡。大体の場合、それらを「知る」という行為には痛みを伴う。

 でも、「これだけは知るべきではないか」と個人的に思っていることがある。ぼくの母が抱えている、過去だ。

 母は耳が聴こえない。生まれつき聴力がない、先天性の聴覚障害者である。彼女はろう学校時代に、同じく耳が聴こえない父と出会い、結婚した。その後、ぼくが生まれ、聴こえない両親と聴こえる息子との間にはそれなりのイザコザもあり、それでもいまは平凡な人生を送ることができている。と、思っている。

 思春期の頃のぼくは、とても荒れていた。親の耳が聴こえないことがコンプレックスのようになっており、常に「恥ずかしい」という感情に苛まれていた。そして、それをそのまま彼らにぶつけた。特に母に対しては、「障害者の親なんて嫌だ」と何度言ったことだろう。そんなことを口にしたって現実はなにも変わらないし、ぼくが抱えるつらさが軽くなるわけでもない。それでも吐き出さずにはいられなかった。そんなとき、決まって彼女はこう言うのだ。

 ――耳が聴こえないお母さんで、ごめんね。

 いまとなってみれば、なんて残酷なことを言ってしまったのだろう、と思う。

 母は決して弱音を吐かない人だった。自身の障害を理由に、たったひとりの息子からどんなに否定されようとも、「自分が悪いから」と受け入れ、眉尻を下げて笑ってみせる。ぼくの興奮が落ち着くのを認めると、「そろそろ夜ご飯にしようね」と立ち上がる。その後姿がなにを背負っていたのか、当時のぼくには知るよしもなかった。

 だから、母の人生には、大きな波風は立っていなかったのかもしれないとも思った。母の障害を人一倍気にしていたのはぼくだけで、彼女自身はそんなのどうってことない、と生きてきたのかもしれない。現に彼女は、家庭を築き、平凡な暮らしを送っている。

 けれどぼくは、大人になってから、その認識が甘かったことを知る。

 それはぼくが20代半ばの頃。父がくも膜下出血で倒れてしまい、急遽帰省したときのことだ。幸いにも緊急手術は無事に成功し、父には後遺症も残らないとのことだった。でも、退院するまではなにが起こるかわからない。実家にいるのは聴こえない母と、少しずつ認知症が進行していた祖母のふたりだけ。彼女たちを置いて帰京するのは心配だ。せめて父が退院するまでは、実家で過ごすことにした。

 父の手術が成功し、数日後。なにを思ったか、祖母がぼんやりと話し出した。

「あなたのお母さんとお父さん、若い頃に駆け落ちしようとしたの」

 初耳だった。いつも控えめな母がそんな大胆なことをするなんて、信じられない。驚くぼくに、祖母は続けた。いったん口を開いたら止まらなくなったのか、意識がはっきりしてきたのか、祖母はどんどん饒舌になっていく。そしてぼくは、彼女が語る昔話の一つひとつに、衝撃を受けた。

 そんなことなんてお構いなしという顔で、祖母は続けた。

 母と父が結婚することを反対していたこと。駆け落ち事件を機にようやく結婚が認められたこと。障害児が生まれては困るという理由から、出産も反対していたこと。それでも子どもを欲しがる母を見兼ねて、結婚から10年が過ぎた頃にそれを認めたこと。そうして生まれてきたぼくに障害がなく、安堵したこと――。

 祖母が話してくれたことがどこまで本当のことなのか、それを確かめる勇気はなかった。直接、母に尋ねてみることもできたかもしれない。でも、それは彼女が抱えるかさぶたを無理やり剥がす行為にならないだろうか。そんなことをすれば、きっと母を傷つけることになる。それに、世の中には知らなくていいことがたくさんあるのだ。ぼくは祖母の言葉を胸にしまい込み、これまで通りと変わらず母と接していこうと決めた。

 けれど、ぼくは祖母から聞いた“事実”を、『しくじり家族』というエッセイに認めた。本作は家族との関係について書いた一冊で、それを書くにあたって、隠すことができなかったのだ。もちろんエッセイには、書くべきこともあれば、書かなくていいこともある。でも、祖母が教えてくれた母の過去は、ぼくにとって“書くべきこと”だった。

 その後、続けて、母との関係に焦点を当てた『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』というエッセイも書き上げた。こちらに込めたのは、母への謝罪の気持ちと、「これからはともに生きていく」という希望だった。

 すると、それを読んだ柏書房の編集者・天野潤平さんが連絡をくれた。「一度会って、話がしたい」という。そして打ち合わせの場で、彼は言った。

「もしよかったら、五十嵐さんのお母様の過去について、書いてみませんか?」

 その言葉の前に、「気を悪くされたらすみません」が付け加えられた。確かに、安易に提案できるものではないだろう。でも、その提案を受けて、ぼくはすぐに返事をした。

「書きたいです」

 この場合の「書きたい」は「知りたい」と同義だったと思う。あれから大人になり、ぼくのなかで母の過去は“知らなくていいこと”ではなく“知るべきこと”に変化していたのだ。

 聴覚障害者として生まれたひとりの女性が、どんな半生を送ってきたのか。障害者に対する差別や偏見のみならず、その出生を防止する「優生保護法」という悪法もあった時代に、彼女はどうやって結婚、出産に至ったのか。それを知りたい。いや、知らなければならない。

 もちろん、母の過去をこじ開けようとするのは、とても乱暴なことでもある。子どもだからといって、無理やり覗き見ることは許されないだろう。だからこそ、まずは真摯に気持ちを伝える必要があると思った。

〈2021年6月某日〉

 東京も梅雨入りしたというニュースが流れ、ぐずつく天気の日が続いていた。夕方になり、ようやく帰省の準備を始めた。持参するのはパソコンにノート、数冊の本のみ。遊びに帰るわけではないので、荷物は必要最低限でいい。出ようとして、大事なものを忘れそうになったことに気づく。天野さんが母宛に書いてくれた手紙だ。そこには「もしも許されるのならば、母の過去を丁寧に取材し、できるなら一冊の本にしたい。途中で嫌になったら止めてもらっても構わない」といったことが、便箋何枚にもわたって綴られていた。

 新幹線に乗り、地元・宮城県に向かう。到着する頃にはすっかり日が暮れていた。母も父も、喜んでぼくを迎えてくれる。

 ――久しぶりだねぇ。東京はもう暑い?
 ――仕事は忙しいの?
 ――コロナ、大丈夫?

 そんな他愛のないことを話しながら、食卓に並ぶご馳走をつまむ。エビ、サーモン、イカ、マグロ。どれもぼくが子どもの頃から好きだった刺し身ばかり。分厚く切られていて、贅沢な食べごたえだ。折を見て、今回の用件について話そうと思うものの、どうやって切り出せばいいのかわからない。

 あなたがどんな人生を歩んできたのか、知りたいんだ。

 そう言ったら、母はどんな顔をするだろうか。

 この日のために手話講座を受け直し、少しずつ勉強はしてきた。それでもまだまだ充分ではない。どこまで想いが伝えられるのか。若干の不安を抱きつつ、早々に眠ることにした。

 明日、母にきちんと説明しよう。久々に地元で迎える夜は、東京のそれに比べて幾分か肌寒かった。

著者:五十嵐 大(いがらし・だい)
1983年、宮城県生まれ。ライター、エッセイスト。2020年10月、『しくじり家族』でデビュー。他の著書に『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』がある。
Twitter:@igarashidai0729

連載「聴こえない母に訊きにいく」について
CODA(コーダ)――両親のひとり以上が聴覚障害のある、聴こえる人。そんな「ぼく」を産んだのは、「聴こえない母」だった。さほど遠くない昔、この国には「障害者は子どもをつくるべきではない」という価値観が存在した。そんな時代に、「母」はひとりの聴覚障害者として、女性として、「ぼく」を産んだ。母の身体に刻まれた差別の記憶。自身が生まれるまでのこと。知らなかった過去を、息子は自ら取材することにした――。本連載では、その過程を不定期で読者の皆様にも共有してゆきます。



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