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頼りなく外へ出る|まちは言葉でできている|西本千尋

この店を開いてから、日常の風景を支えていたさまざまのうちのひとつが、となりの空き地であると思う。勝手に生きている草や花や虫たちに、勝手にほっとしたり、拝借したり、昔の記憶をたどったりして、なんとなくつながりながら、隣りあって生きていく。「空き地」とは人間の一方的な命名だけれど、気づけばそんなふうに名指される場所こそ、何ものでもない自分が息をするための代えがたい場所であったのだと思う。

奥田直美「となりの空き地」『さみしさは彼方』86頁
初出=『京都新聞』2019年5月17日

唐芋通信

 記憶が確かであれば、子どもが2歳になるかならないかの頃、近所に住んでいた友人が、「奥田直美さんという方がね、編集していてね」と言って『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(『ち・お』)という育児書を見せてくれた[*1]。

 「直美さんは、京都の西陣でね、ご夫妻でカライモブックスっていう古本屋をやってらして。直美さんが石牟礼文学に親しいことからね、カライモなんだって。カライモは、ほら、熊本とか、南九州の方言でサツマイモのこと!」「西陣で、カライモブックス、そうなんだね。奥田直美さん……」彼女の家と私のアパートをつなぐ長い桜並木、その青葉の先、光を束ねるトンネルを急いでくぐった。彼女の教えてくれた宝物を落としていないか、何度か振り返るようにして。その土地は東京では珍しく、土の匂いがあった。武蔵野。

 戻って、すぐに直美さんが編集を手がけられた『ち・お』を3冊、カライモブックスに注文し、送っていただいて、貪るように読んだ。最初に読んでみた118号の特集は「こどもの『ちがい』に戸惑うとき」だった。我が子はあまり眠らない人だった。毎晩、寝かしつけに2〜3時間かかり、そのように寝たはずの人は、なぜかすぐ起きた。肌から離すと泣くので、子を抱っこしながら、座って眠っていた。泣き止むのは、乳首を口に含むときだったから、ずっと咥えさせていた。乳首は切れて、膿んだ。眠気と痛みと疲労がひどく、何も考えられなかった。子どもの命を守る、支えるというのが、こんなに大変なことだと知らなかった。わたしはいつのまにか「何かうまいやり方はないか」と、子育てスキルのようなものを必死に探すようになっていった。ただ、熱心に知識や技術を調べても、子どもは一向に眠るようにはならなかったし、それどころか、どんどん子育ての喜びや自信のようなものをなくしていった。

 そんな時に教えてもらった『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』であり、カライモブックスだった。『ち・お』には「唐芋通信」というフリーペーパーが同封されていた。

「唐芋通信」は、わたしたちが出しているフリーペーパーで、創刊は2013年、当初はゲストに寄稿もいただいたが、途中からは家族で書くお便りのような通信になった。[…]いったいどうしてこういうものを書いてきたかと考えてみれば、毎日24時間をともにして仕事をし育児をし、社会の動きに揺さぶられながら生活を回していくなかで、自身の思いや状況を整理することが、それを切り抜けるのにどうしても必要だったからだ。

「はじめに」『さみしさは彼方』ⅺ頁

 「通信」では、直美さんと夫の順平さんの言葉のほかに、娘さんのみっちんの「声」が届いた。「寝静まったあとに触れる『ち・お』とみっちんの声(カライモ原文ママ通信)には、なんどもワクワクし、同時に、助けていただきました」。2018年8月3日、わたしは直美さんに本と「通信」のお礼を書いている。「言葉」が支える暮らしというものが、ある。「言葉」が手繰り寄せる世界というものが、あるのだ。

 「通信」のみっちんの「声」を読んでいくと、子育てを技術論やスキル取得のように捉えていたさみしさが、ふっと消えたような気がした。「何かうまいやり方はないか」――そんな問いを一切忘れてしまうくらい、みっちんが直美さんと順平さんの隣で生きていることが、ただただ愛おしかった。みっちんのそばで、直美さんと順平さんがもがきながら「切り抜けるのにどうしても必要だった」として綴られた言葉は、遠くに住み、のたうち回っていたわたしをも支えた。このように綴り、暮らしている人たちが、京都にいるのだ。「通信」や『ち・お』をお守りのように持っていた。

おのおのの土地で

 京都・西陣の店舗への訪問は叶わなかったが、移転後のカライモブックス(北野天満宮の近く)に何度か伺ったことがある。眠らない子の手を引き、同じように眠らない弟をおんぶして。

 路地奥の、カライモ色した暖簾のれんのかかったお店。店の引き戸を開けると、玄関の左側に本が積まれていて、靴を脱ぐ。「おじゃまします」小さな声で言って、廊下を歩いていくと、とんっとひらけた部屋にたどりつき、そこには天井まで届く本棚と光の入る空間がある。左奥に順平さんがいた。しばらく棚を眺めていると、どこからかみっちんの声がした。路地から友達に呼ばれたみっちんは、風や光みたいにその部屋を出ていったり、戻ってきたりした。わたしは、こんなふうに、家や店やまちを行き来しながら生きていくことが、子どもを育てることができるんだな、と思った。自分らしく、自分の道を、他者と確かめ合いながら、揺さぶられながら、生きていくことができるんだな、と思った。

 この夏、三人は水俣へ行く。石牟礼道子さんと夫の弘さんの旧宅で、カライモブックスを営むためだ。「通信」には順平さんの「水俣に行きたい」という気持ちがよく書かれていたので、驚きというよりは、ついにという感覚のほうが大きかった。先日、そんなお二人の著作『さみしさは彼方』が出版された。そして、担当編集者の渡部ともさんがZOOMでご著書のエピソードなどをお話しされる会があった[*2]。未だに眠ることの苦手な子を寝かしつけるのに必死で、上手に聞けた自信はないのだが、その番組の後半、お二人の声を聞くことが叶った。

 直美さんは「水俣へ行くことを自分の中でどう捉えるのか、言葉にするのか、それをどう皆さんにお伝えするのか」という趣旨のことを話された。子どもが眠ったあと、真っ暗な部屋の中で、もう一度、お二人の言葉を思い出し、「カライモブックス」という、石牟礼さんの旧宅で開かれる本屋を想った。三人が石牟礼文学の生まれた「水俣」という土地に行くということを想った。

 今、わたしたちの暮らしや政治は、「水俣」という彼方かなたの声や言葉、すなわち「『現場』を慎重に除外して成り立っている」。「ある人々(あるいは我々)の生活を左右するもっとも決定的な力をもっている立場にある人が、人々(あるいは我々)が日々何を思い、何に苦しみ口惜しがっているのかを聴かないまま決断を下しうる社会の仕組みがある」[*3]。

 「何ものでもない自分が息をするための代えがたい場所」は、今日もあちらこちらで壊されている。「なんとなくつながりながら、隣りあって生きていく」ことはますます難しくなっている。わたしたちはおのおのの土地で生まれ、おのおのの土地で子どもを育てる。たとえ、おのおの生きる土地はバラバラであっても、「言葉」が支える暮らしというものが、ある。「言葉」が手繰り寄せる世界というものが、ある。その声や言葉を、わたしは「カライモブックス」を通じて、聞かせてもらってきた。これからも、おそらくそうだろう。

 直美さんは著作の中でこうも書かれていた。「石牟礼文学の世界が、今水俣や天草にあるというわけではないのに、どうして移り住もうとするのだろう。その理由を言葉にできたら、もっとわたし自身が納得できるのに、みなさんにも正確に話せるのに」。「不安も怖さも抱え持って、わたしたちは13年の歳月とともに、水俣に行く」。「頼りなく外へ出る」。

 わたしにとってのそれ[筆者注:石牟礼道子の世界]はやはり、遠い高校生のあの日に出会った、詩であり語りであり、独りの世界に息づく土の言葉。帰りたくて帰りたくて、ゆき着くことのできない光だ。

奥田直美「わたしの石牟礼道子」『さみしさは彼方』16頁
初出=「唐芋通信」3号、2014年6月

 真っ暗な部屋の中でひとり、移転の知らせを聞いた友人が、「水俣で、会えるね」と連絡をくれた日のことを思い出していた。わたしはどこへゆき着けるのか、ゆき着けないのか。

 頼りなさのそばには、いつも誰かの言葉があった。


【注釈】

[*1]『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(『ち・お』)とは、ジャパンマシニスト社(東京)が不定期刊行する育児雑誌。主に乳幼児期の子育てをテーマに、小児科医の山田真さんと故・毛利子来(たねき)さんが中心となり、1993年に創刊。奥田直美さんは、115号〜124号の編集人(カライモブックスのHPより)。125号からは熊谷晋一郎が担っている。以下の記事なども参考。「比べない、競わない子育てを伝える雑誌「ち・お」「お・は」 一人で追い詰められがちなあなたに贈ります」『東京すくすく』(2021年3月12日)

[*2]猫町倶楽部事務局主催「編集さんいらっしゃい!」ゲスト:岩波書店 渡部朝香、2023年3月6日(月)開催。

[*3]友澤悠季「『現場』とはなんだろうか」『公開自主講座「宇井純を学ぶ」』2007年、15~16頁(配布資料)。本寄稿は、2007年6月23日(土)に東京大学安田講堂で実施された「公開自主講座『宇井純』を学ぶ」のディスカッション「若い世代が受け取る宇井さんの言葉と仕事」にて、パネリストのひとりとして登壇された友澤悠季さん(当時・京都大学大学院生)によるもの。環境問題・公害研究者、運動家である宇井純さんは「現場主義」を唱えたとされるが、「オウム返しのように『現場』と繰り返してもその内実は形骸化していくだけだ」として、「現場とは何か」、その「中身」を問い、「『現場』を慎重に除外して成り立っている」場に自分から『現場』をねじこんで、何かを変えていくこと」の重要を指摘している。

著者:西本千尋(にしもと・ちひろ)
1983年埼玉県川越市生まれ。埼玉大学経済学部社会環境設計学科、京都大学公共政策大学院卒業。公共政策修士。NPO法人KOMPOSITION理事/JAM主宰。各種まちづくり活動に係る制度づくりの支援、全国ネットワークの立ち上げ・運営に従事。埼玉県文化芸術振興評議会委員、埼玉県景観アドバイザー、蕨市景観審議会委員、歴史的建築物活用ネットワーク(HARNET)事務局ほか。
大学時、岩見良太郎(埼玉大学名誉教授/NPO法人区画整理・再開発対策全国連絡会議代表世話人)に出会い、現代都市計画批判としてのまちづくり理論を学ぶ。2005年、株式会社ジャパンエリアマネジメントを立ち上げ、各地の住民主体のまちづくり活動の課題解決のための調査や制度設計に携わる。主な実績として、公道上のオープンカフェの設置や屋外広告物収入のまちづくり活動財源化、歴史的建築物の保存のための制度設計など。
以上の活動経験から、拡大する中間層を前提とした現行の都市計画、まちづくり制度の中で、深まる階層分化の影響が看取できていないこと、また、同分野においてケアのための都市計画・まちづくりモデルが未確立であることに関心を抱くようになる。2021年、その日常的実践のためNPO法人KOMPOSITIONへ参画。同年、理事就任。

連載『まちは言葉でできている』について
都市計画は「都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与すること」を目的に掲げ、新自由主義体制の下、資本の原理と強く結びつきながら、私たちの生活の場を規定してきた。そうした都市計画制度の中に、住民や市民が登場することはほとんどなかった。しかし今、経済成長と中間層拡大という「前提」を失った都市は、迷走している。誰のための都市なのか、それは誰が担うのか……。
「都市計画」はそもそも得体が知れない。だからこそ私たちは、それと対峙し、言葉で批判を展開するのに苦労する。しかも、言葉を飲み込んでしまえば、その沈黙は計画への「同意」を意味することになる。望んでもいなかったものが、望んだものとされてしまう。あまりに理不尽で、あまりに摩訶不思議な世界ではないか。
本連載では、「みんなのため」に始まる都市の暴力に屈しながらも抗うために、「わたしたちのまち」を「わたしたちの言葉」で語り直すことから始めたい。都市計画やまちづくりのもつ課題を「ケア」の視点からパブリックに開くためにも、「言葉」を探っていきたい。

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