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理路整然と話せるほうがいいのか?

 エッセイ連載の第3回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

今回は、第1回のつづきような内容で、
「理路整然としていたほうがいいのか?」ということについて。
一部、ラジオでも話したことがありますが、あらためてじっくりと。

あなたは理路整然と話すほうですか?
理路整然と話すほうがいいと思っていますか?

ちょっと長いですが、よかったら、お読みになってみてください。

宮古島で出会った不思議なMさん

 私は東京から、沖縄の離島の宮古島に移住した。
(なぜ移住したのか、ということについては、またいつか別に書いてみたいと思っている)

 宮古島には誰も知り合いがいなかった。
 どこを歩いて誰とすれちがっても、絶対に知っている人と会わないというのは、新鮮な体験だった。

 ただ、私は持病があるし、海に囲まれた島で、誰も知り合いがいないというのは、さすがに心細い気もした。

 そんなときに知り合ったのがMさんで、とても親切にしてもらい、いろんな人も紹介してもらった。豪快でパワフルな女性で、子育てをしながら仕事もしていた。
 その仕事が、なんだかよくわからない。Mさんのまわりには自然とたくさんの人が集まってきて、こんなことをやろうと企画が持ち上がり、みんなでそれをやるというようなことが、ずっと続いているらしく、こういう仕事をしていると、ひとことでは言えない、不思議な人だった。

 Mさんは、私がお酒を飲めない、食べものにも制限があると知っても、まったく気にせずに、飲みに誘い、ひとりで飲んで食べて盛りあがってくれた。もう誘わないとか、そういうことはなく、飲まない食べないこちらに気を遣うこともなく、少し飲めとか食べろとかうながすこともなく、まったく普通にしゃべって盛りあがってくれるのだ。ありがたい人だと思った。

 なので、よくいっしょに飲んでいた(私は少し食べるだけだが)。
 Mさんの話は、いつも面白かった。何時間しゃべっていても、あきなかった。
 ただ、困ることがあった。何か頼みたいことがあるからと呼び出されて、何時間も説明を聞いているのに、何を頼みたいのか、よくわからないのだ。
 この人のことが好きだったし、感謝もしていたから、何か頼み事があるなら、なんでもしたいと思っていた。ところが、どうしっかり耳を傾けても、何を頼まれたのかが、よくわからない。

 たとえば、原稿を頼まれたことがあって、そこまではわかるが、どういう内容の原稿を、いつまでに、何文字くらいで書けばいいのかが、わからない。聞けばいいと思うかもしれない。聞いているのだ。返事も、もちろんちゃんとしてくれる。しかし、よくわからないのだ。期限は、こちらにおまかせだし、文字数も自由だし、内容についてはどんなに説明を聞いてもよくわからない。しかし、期限はあるはずだし、載せるスペースも限られているはずだし、内容だって的外れでは困るはずだ。

 困ったなあと思っていた。ただ、彼女の周囲に集まっている人たちは、ちゃんと企画を実現させたりしている。そういうひとりに、「彼女の言っていることがよくわからないんですが……」と正直に相談をもちかけてみた。すると、「頭木さんもですか!安心しました!私もよくわからなくて」という返事でびっくりした。それでよく物事が進められるなあと。

 ようするに私は、理路整然にとらわれていたのである。
 理路整然と話すほうがよく、そうしてくれないと、何を言っているのか、こちらにはよくわからないし、協力したくてもできない、と思っていたのだ。
 すごくいい人だけど、理路整然としゃべれないのだけが欠点だと、当時の私はすごく失礼なことを思ってしまっていた。

これはすごいことなのではないか!

 ただ、だんだんと私は疑問を感じるようになっていった。
 理路整然としゃべるのがよくて、理路整然としゃべれないのがよくないことだとしたら、この人と話していて、つまらないと感じたり、時間の無駄と感じたり、いらいらしたりするのではないか?
 そんなことはまったくないのだ。先にも書いたように、何時間話していても面白い。
 逆に、「自分にそんなしゃべり方ができるのか?」と思った。そう自問してみると、とてもできそうにないのだ。どうやったらいいのかもわからない。
 これはすごいことなのではないか! と、ようやく気づき始めた。

 そもそも私は、「言葉にはできない思いがある」ということを、病気になった体験などから、身にしみてわかっていた。
 にもかかわらず、何か説明するときには、理路整然としゃべるほうがよくて、そうでないことをマイナスのように、まだ思ってしまっていたのだ。

 しかし、理路整然というのは、つまりきちんと整理された言語化ということで、きちんと整理できない要素は、そぎ落としてしまっているのだ。
 たとえば、医者の言葉は理路整然としている。「潰瘍性大腸炎とは大腸に炎症が起きる病気である」というふうに。しかし、患者として体験する潰瘍性大腸炎を説明しようとしたら、そんなにすきっとしたものにはならない。さまざまな症状や痛みや不快感などがあり、別物のようになった腸で生きていくという、ちょっと説明の難しい体験であり、社会との関わり方まで変わってくる。
 潰瘍性大腸炎の患者は、説明がくどくどしていると言われることがよくある。そのせいで、「そういう性格だから、そういう病気になんだ」とさえ言われてしまうこともある。しかし、実際には逆なのだ。言語化が難しい体験をしてしまうから、説明が長くなり、しかも要領を得なくなってしまう。私は病気の体験について『食べることと出すこと』(医学書院)という本に書いたが、1冊書いても、まだまだ言語化できていないことがたくさんある。

こんなにも言語化できない世界を生きていたのか!

 病気というような特別なことでなくても、ごく平穏で平凡な1日のことであっても、その日にあったこと感じたことを、本当に克明にちゃんと言語化しようと思ったら、それはほとんど無理なことにすぐに気づくだろう。
 たとえば、今、感じているにおい、これをどう書けばいいだろう?「都会の道のにおい」とか、そんなふうに大ざっぱに書くことはできるかもしれないが、自分がその瞬間に感じているにおいを、ちゃんと言語化することは不可能だ。
 味もそう。おいしくても、おいしくなくても、今食べているものの味をちゃんと言語化できるだろうか?
 風景にしてもそうだ。どんなに細かく描写したとしても、完全には描ききれない。
 人の顔もそうだ。そこに微妙に感じられる感情も。それに応じて自分の心の中にわいた感情も。
 こうしてあげていってみると、じつは言語化できないことだらけで、びっくりしないだろうか? 自分はこんなにも言語化できない世界を生きていたのかと。

スープのなかの言葉たち

 言語化できることなんて、ほんのわずかだ。
 言語化するというのは、たとえて言うと、はしでつまめるものだけをつまんでいるようなものだ。
 スープのようなものは箸でつまめない。
 そういうものは、切り捨ててしまっているのだ。
 だから、じつはスープがたっぷり残ってしまっている。
 そのスープのほうが気になる人は、「うまくしゃべれない」ということになる。

 もちろん、箸でつまめるものをきちんとつまむことも重要だ。
 しかし、それだけが素晴らしいわけではない。
 スープもおいしいわけだし、むしろそちらのほうがおいしいかもしれないのだから。

 Mさんは、豆だけをつまもうとはしていなかったのだ。スープたっぷりの会話をしようとしていたのだ。
 だから、理路整然とはしていないけど、理路整然としていないからこそ、豊かだったのだ。理路整然としていたら抜け落ちてしまっていたはずのものをたっぷりふくんでいたわけだ。だから、何時間聞いても面白かったのだ。

ことばにできない思いをことばで

 詩人の長田弘はこう書いている

けっしてことばにできない思いが、ここにあると指すのが、ことばだ。

『詩ふたつ』 クレヨンハウス

 言葉というのは不思議なもので、言語化できないことでも、なんとか指し示すことはできる(とても難しいが)。
 だから、文学というものがある。言葉にできないことを、なんとか言葉で表現するのが文学だ。
 そもそも、そういう無理なことをしている。だから、作家の安倍公房はこんなことを言っているわけだ。

 言葉に対する不信と絶望を前提にしなければ、作品に自己の全存在を賭けるなどという無謀な決意も、生まれてくるわけがないのである。

『安部公房全集20』新潮社

 私が病院で、文学に救われたのは、言語化できない体験をした私にとって、言語化できない体験をなんとか語ろうとする文学こそが、なんとかすがりつける命綱であったからだろう(もちろん、そこまで理屈っぽく考えたわけではなく、なんとなく文学はいいなあと感じただけなのだが)。

「あなたは理路整然と書くことができない!」

 Mさんは、SNS上で、新聞記者の人と議論になって、じれた新聞記者の人から「あなたは理路整然と書くことができない!」とキレられていた。
 それが欠点であり、能力が低いかのように、批判されていた。
 理路整然と書くことを目指してきた新聞記者の人としては、無理もないことかもしれない。
 しかし、そのやりとりを見ていて、「ああ、そうじゃないのになあ……」と、とても残念に思った。
 理路整然ではないよさ、スープたっぷりのよさは、なかなかわかってもらえない。
 すくえないスープを無視せずに、なんとかスープもすくおうとする、その無謀な企ては、どうしたって理路整然とはしない。文学の言葉になる。

 若き日の今井美樹が出ていた、『輝きたいの』という山田太一ドラマに、こういうセリフがある。

「ハキハキしとるなんちゅう奴ら、ハリ倒したくないか? そういうのンばっかり光あたったら、いまいましうないか?」

山田太一『輝きたいの』大和書房

 ハキハキのどこがいけないのか? と思うかもしれない。
 でも、作者の山田太一は、ある講演会でこう語っている。

「なににでもテキパキ意見を言うなどというのは、いかがわしくはないでしょうか。口ごもり、迷っている人のほうが、自然だし、むしろ温かい気がします」

 本当にそうだと思う。

ドキュメンタリー番組の青年

 以前、あるドキュメンタリー番組を見た。社会に出て、なかなかうまくいかない青年が、あらためて研修などを受けて、再就職を目指すという内容だった。
 その青年は、はきはきしゃべれない。テキパキ意見を言ったりできない。
 名刺交換の練習のシーンでも、相手のほうは「○○会社の××です」とハキハキ言えるのに、その青年のほうは、「あの、えと、その……」なんてなってしまう。

 たしかに、営業でやってきた人が、社名や名前もちゃんと言えないようでは、取り引きしようという気にはなれないかもしれない。

 しかし、そんなことも言えない青年はダメかと言えば、ぜんぜんそんなことはない。ハキハキものが言える若者とはまた別の魅力がある。ただ、その魅力がビジネスシーンでは生きないというだけのことだ。

 ただそれだけのことで、その青年はダメ出しをされ、はずかしめられ、採用試験で不合格になり、自分でも「ハキハキできない自分はダメだ」と思い込んで、落ち込んでしまう。

 でも、もしこの青年が、研修の成果で、ハキハキものが言える若者になってしまったら、むしろそのほうがずっと残念なことだし、無残なことだし、こわいことではないだろうか。

理路整然としてないことに誇りを

「理路整然と話せる」で試しにネット検索してみると、こういうのがトップに出てくる。

「理路整然」とした話し方はビジネスシーンでの強力な武器

 理路整然と話す6つの方法やポイントとは?

 理路整然と話したほうがよく、理路整然と話せるようになるために努力しようという感じだ。

 何度もくり返すように、これを否定するわけではない。
 しかし、「理路整然と話さない」というのも、素晴らしいことだ。箸でつまめる豆だけでいいと、簡単にスープを切り捨てられない人なのだ。そのことに誇りを持っていいと思うし、大切にしたほうがいいと思う。
 理路整然としゃべることができる人も素敵だが、理路整然とせずにしゃべることができる人も、また素敵だ。前者だけでなく、後者もいてほしい。前者だけでなく、後者も尊重してほしい。

 私はもともと理系だったし、理路整然を美しいと感じるほうだった。だから、自分のしゃべりもなるべく理路整然とさせたほうがいいと思っていた。
 だが、Mさんに会ってからは、それを大いに反省して、理路整然としないように気をつけている。
 本を書くときも、言葉で書いているわけだが、言葉にできないことを常に意識し、理路整然としすぎないように気をつけている。

理路整然とさせたら売れなくなった本

 これはある編集者さんから聞いた話だが、ある作家さんの本がとてもよく売れるのだけど、ただ文章が、同じことを何度も言ったり、ぐるぐる回っているようだったり、じつにすっきりしない。
 それで、あるやり手の編集者さんが、もらった原稿に全面的に手を入れて、とても理路整然としたすっきりした本に書きかえた。
 すると、その本だけは、売れなかったのだそうだ。
 理路整然としていないところにこそ、その作家さんの魅力があったということだろう。

 私は原稿を書いていて、なんだか理路整然としてきてしまったなと感じると、Mさんのことを思い出すようにしている。
 そして、書き直す。もう少しスープを増やすことはできないかと。

Mさんのたっぷりのスープ……

 じつは、Mさんは急逝してしまった。
 当人は100歳まで生きると言っていて、周囲もそう思っていた。それくらいエネルギッシュでバイタリティーあふれる人だった。
 だから、いまだに信じられない思いだ。
 今はもういない人を振り返るとき、その人の言っていたことが思い出されたりするものだ。ああいうことを言っていたなあと。
 彼女も場合も、そういう言葉はある。でも、やっぱり言葉ではないなあと思う。
 この人が、私たち知り合いの心の中に残していってくれたのは、言葉にできない、たっぷりのスープだったなあと思うのだ。




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