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「無敵の心理学」がこわい……

エッセイ連載の第4回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

私は心理学が好きなのですが、心理学には困らされてしまうこともあります。
さらに、こわいな……と思うことも。

深層心理、隠された本音、裏にある本心……
そういうものを指摘されて、当惑したことのある方は、お読みになってみていただきたいです。

 この連載の第2回の「思わず口走った言葉は、本心なのか?」というエッセイで、「まったく本音ではないことを口にした」という体験を書いた。

 こういう体験を人に話したとき、かなりの確率で言われるのが、「じつはそれが本音かもしれませんよ」ということだ。
 つまり、自分自身でも気づいていなかった本音が、そういうときに出てくるのだ、ということだ。

 たしかに、そういうこともありうるだろう。

 でも、私の場合はまったくちがうので、「そんなことはないですね。まったく本音ではないことが出てくることもあるから、びっくりしたという話なんですよ」と説明する。
 そこで終われば、別に何の問題もない。
 相手からしたら確認しておきたいことだし、こちらも肝心なポイントをさらにきちんと伝えることができる。

 しかし、そこで終わらず、第二ステップがある場合も。
「本音というのは、自分自身でもわからないものですよ。だから、本当はそれが本音なのかもしれませんよ」と相手が押してくるのだ。
 こうなると、困る。なにしろ、「自分自身でもわからない」となると、私がいくら「いえ、それはまったく本音ではありません」と言ったところで、どうしようもないのだ。
 相手はにやにやして、「まあ、ご自身ではちがうと思うかもしれませんが、きっとそうですよ」などと決めつけてくることさえある。

 こういうときに思い出すのが、磯野真穂さんの『他者と生きる』(集英社新書)という本で知った、メラネシアのエピソードだ。

 メラネシアでは、ひとは眠っているあいだに遠い村で盗みを働いたという非難を甘んじて受け、身の潔白を証明するアリバイをもち出したりせずに罪に服する。

『ド・カモ』モリース・レーナルト せりか書房

 寝ている間にやっただろうと言われてしまうと、自分ではおぼえていないのだから、否定のしようがない。

 それと同じで、深層心理のことは自分でもわからない、と言われてしまうと、否定のしようがなくて、途方に暮れてしまう。
 私はこういう心理学を、「無敵の心理学」と勝手に呼んでいる。

 しかし、これもまあ、濡れ衣を着せられるだけだから、まだいい。
 問題は第三ステップがある場合だ。これがこわい。
「本音というのは、自分自身でもわからないものですよ。だから、本当はそれが本音なのかもしれませんよ」と相手から言われたときに、「なるほど。そうなのかも」と、こちらが説得されてしまう場合のことだ。

 たとえば私の場合だと、「家にいるのがイヤだ」と口走ってしまい、実際にはそんなことはまったく思っていなかったわけだが、じつはそれが「自分でも自覚できない深層心理での本音」というふうに説得されてしまうと、自分の過去をふりかえって、いろいろ考えてしまう。そうやって掘り起こせば、もちろん親に不満も持ったこともあるし、家出したくなったりしたこともある。そういうことのない人はいないだろう。だから、「そうか、自分はそんなふうに思っていたのか!」と、本当はナイものを発見してしまいかねないのだ。

 先のメラネシアのエピソードでも、疑われた当人は、自分でも認めてしまっている。
 異なる文化に住む私たちは、ムチャクチャだと思う。寝ていたのに、遠い村で盗みを働けるわけがないと。
 ところが実際には、私たちも心理学の名のもとに、同じようなことをやっているのだ。
 濡れ衣をきせられて、さらに自分自身までそう思い込んでしまう。
 これが「無敵の心理学」のこわさだ。

 ねんのため言っておくと、私は基本的に心理学が好きだ。
 大学でも心理学の単位をいくつもとったし、本もかなり読んでいる。
 とくに心理実験が好きだ。たとえば、目の前の自分の手さえ見えない完全に真っ暗な部屋に、知り合いではない男女を入れると、30分以上たった頃から、お互いにふれあい、抱き合いはじめるそうだ。不安が人を結びつけるのだろう。

 また、知り合いではない二人に長期間、ひとつの部屋で同居してもらうとき、窓の外に豊かな自然が見える部屋と、人工物しか見えない都会の部屋とでは、後者のほうがはるかにケンカが起きる確率が高いそうだ。入院中、病院の窓から自然が見えることがいかに大切か、身にしみた私には、とても納得がいく。

「絶望した犬」という実験もあって(犬がかわいそうなので、こういう実験には反対だが)、閉ざされていて逃げ場のない檻の中で、床に電流を流されて電気ショックを与えられ続けた犬は、電気ショックを与えられずにすむ部屋に逃げられるようになっても、もう逃げようとはせず、床に伏せたまま動かない。何もやってもどうしようもないという絶望を学んでしまったのだ。この実験など、まるで自分のようで涙が出てきてしまう。

 フロイトの「無意識」という発想も、すごいと思う。この発想に影響を受けていない人など、現代にはおそらく誰もいないだろう。
 そこからさらに、心理学も精神医学もどんどん進歩している。

 しかし、切れ味が鋭いからこそ、無闇に使ってみたくなる、という問題がどうしても生じてしまう。
 上方落語の『首提灯』という噺では(江戸落語の『首提灯』とは内容がちがう)、道具屋で仕込み杖(杖の中に刀が仕込んである)を買った男が、その切れ味があんまりいいので、誰か切ってみたくてしかたなくなる。それで、わざと家に泥棒が入るように仕向けて、その泥棒の首をすぱっと切り落としてしまう。
 泥棒とはいえ、首を切り落とすとはひどすぎるわけだが、刀を手に入れたことで、だんだん切りたくてしかたなくなるところに、迫力と説得力がある。(桂枝雀のDVDが出ているのでよかったら)

 心理学も同じで、やたらふりまわして切ってみたくなってしまうところがある。
 しかし、刀が要注意であるように、心理学も要注意だ。

 たとえばフロイトにしても、言い間違いには本音が現れているとか、いわゆる「象徴」とかは、やたらふりまわされやすくて危険だ。
 私はメールで、「お世話になっています」と書くときに、「お世話になっていません」と書き間違えることがある。
 これなんか、もしそのまま送信してしまったら、後からいくら弁解しても、相手は「こいつ、心の奥底では、おまえなんかの世話にはなっていないと思っているな。それがこいつの本心だな」と思ってしまうかもしれない。

「○○様」と書こうとして、「○○雑」と書き間違えてしまこともある。これも危険だ。相手は「雑! おれのことを、どうでもいい、その他大勢のように思っているんだな」と怒りかねない。
 実際には、ただの書き間違いにすぎないのだが。

 今これを読んでいるあなた、「いやいや、その書き間違いはいくらなんでもおかしいから、やっぱり頭木さんの本音が出てしまっているのでは?」と思っていないだろうか?

 そういう「無敵の心理学」は、困ってしまうのだ。

 ありもしない本心を、裏から取り出してくる手品は、遊びだけにしてほしい。


(今回出てきた本やDVD)



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