尾崎紅葉、お前さては天才か?

まずこの文章を読むためのお約束だ。
「金色」とでたら「こんじき」と読め。
「きんいろ」と読んだやつから蹴り払ってやる。
覚悟しい。

尾崎紅葉というと「金色夜叉」だ。
ご存知だろうか。熱海に銅像があったりなんかする。
どんな話かというと金にとらわれた男とそいつにフラれた元祖メンヘラの話だ。え、自分の話かと思った?あらやだそんなことまで聞いてないわよもう。

大変面白い話なのだが残念ながら未完の作品だ。
完成させていると見せているが、実際は作者が病の悪化で無理矢理ああやって終わらせるしかなかったのだ。紅葉は「未完」と「完結」では完結をとったのだ。
しかしきっと紅葉としてはやりきれないだろうという意味で私は「未完」としている。

すまない今回はあまり金色夜叉本編の話をしない。何が言いたいかというと「尾崎紅葉は天才」ってことだ。
尾崎紅葉というと熱海の銅像のイメージや江戸生まれの古い作家といったイメージがあるが、読んでみるといい、彼は文学が主戦場の芸術家だったように私は思う。
描写の細やかで美しいこと。絵画でもなく、映画でもなく、彼の書いていたものは美の小宇宙に近い。少し堅い文体にしなやかな口語の台詞。色も情景も花も着物の生地までも鮮やかな描写。そこには重力なんて野暮なものはない。地に足がつかないような限りなく美しい世界があるのだ。美しい宇宙空間。もはやあの無理矢理な終わらせ方も嘘ではないように思う。こんなに美しい空間など夢でなければ困る。現実なんて見てられん。全く全く。

なんなら「金色夜叉」なんて題名もとんでもない。作中に「金色」も「夜叉」も出てきはしない。それなのにも関わらず、登場人物の様や本質を描き「金色夜叉」だなんて幽玄な比喩で表したのだ。
背表紙だけをまず眺めてみろ。金色の夜叉なのか、金色の中にたたずむ夜叉なのか、金色と夜叉なのか。それらはどれを想像しても雄壮で美しく目も眩む。
「こんじきやしゃ」だなんて響きまでいい。似たイメージの「きんいろ」でも「こがね」でも「おうごん」でもない「こんじき」なのだ。好きな小説は何かときかれて「こんじきやしゃ」だなんて言ってみろ。最高だ。スマートじゃないか。美しい。軽く5000人程の女が惚れるだろう。間違いない。おめでとう。
その上字面まで美しい。「金」に「夜」だ。作中に月がたびたび出るのだが、「金色夜叉」だなんて題名だからか、月夜のシーンは全て深い夜の中に影がくっきりと出るほどに月が金色に煌々と光っているように思われる。とんでもねえ。これは洗脳だ。

さては天才か?

尾崎紅葉は35歳で亡くなった。若い。それでも彼の門下生は意外といる。中には宗教的崇拝と尊敬を示し信者のような弟子までいる。無理もない。私も生きていたら尾崎紅葉から教えを乞いたいし、言葉の一つ一つまで知りたい。どうやったらあんな世界が作れるのか。文を書くものなら皆知りたいだろう。
ちなみに弟子の1人が泉鏡花だ。泉鏡花の作品の端々から尾崎紅葉を感じてしまい泣きたくなる。この話はまた後だ。1500字必要になる。


金色夜叉は実験的小説と当時言われた。堅い文体と柔らかい口語体。優雅な雰囲気に通俗的なストーリー。これは果たして上手く共存できるのか。

教えてやろう。成功なんてものじゃない。
優勝。
賞品は金剛石。
それでも女は大事にしろよ。
え、肝心な彼女がいないって?あらやだそんなことまで聞いてないわよもう。

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