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袖無かさね



月は、恋をしていました。



月が初めてその青年に会ったのは、雪が溶け始めた頃でした。真っ白に固く凍っていた景色が柔らかくなって、その丘を登る道が見えてきて、丘のてっぺんの一本杉が冬の間かぶっていた白い帽子をどさりと地面に落として、その音に驚いたウサギが穴から飛び出して、そうしたら、笑い声がしたのです。

「だれかいるの?」

月が一本杉の丘をのぞきこんだら、その青年がいたのでした。



その日から毎日、青年は、月が空に浮かぶ時間になると、丘を登り、丘のてっぺんの一本杉に寄りかかって座りました。そして、ラッパを吹きました。

青年のラッパの音は、柔らかく響きました。その音は、月が浮かぶ空まで届くと、美しい色になって夜空を舞いました。



出会った頃の青年のラッパの音は透明で、氷の結晶のようにキラキラと輝きました。月は、その輝きに星の光を添えて、一本杉の丘に残った雪を照らしました。



春が来ると、ラッパの音はスミレの色になりました。月は、ふんわりと暖かいその音を、心地良く身にまといました。一本杉の丘からは、月がうっすら紫色に染まって見えました。



夏のラッパの音は一直線に夜空に駆け上がり、月を通り越して更に夜空を突き進んでいきました。その様子は勇ましくて、真っ青な光の柱のようでした。月の姿は真っ青な柱に反射して、一直線の金の光を一本杉の丘に落としました。



秋には、ラッパが華やかなメロディを奏でて、夜空を豊かに流れました。月は、広い夜空を満たすその流れの彩に見とれて、トロンと溶けました。



どの夜も、美しい色に満たされました。月も満たされていました。再び冬になって、景色が真っ白に固く凍ってしまうまでは。



辺りが凍ってしまうと、青年はもう、一本杉の丘に現れなくなりました。ラッパの音は聞こえず、夜空が美しい色に染まることもなくなりました。月は寂しくて、自分も真っ白に固く凍ってしまいたくなりました。

「でも、そうしたら、この寂しさが私に凍りつく。」

そうなってしまったら、青年との大切な思い出を忘れてしまいそうです。月は、青年のラッパの音と美しい色に満たされた夜を、一つ一つ思い出しました。

出会った頃の、氷の結晶のようなキラキラとした光。春の、ふんわり暖かいすみれ色。夏の、勇ましい真っ青な光の柱。そうしていると、どこからか、あの秋に聞いた豊かな彩がよみがえって、月はトロンと泣きました。月の金色の涙が一粒、あの丘に落ちました。



青年は、丘のふもとの街に住んでいました。冬の街には雪が深く積もって、青年は家から出られないまま、月を想いました。出会った頃、丘に残った雪を照らした月と星の輝き。春、うっすら紫色に染まった月の色。夏、真っ直ぐに月からさした金の光。青年は久しぶりにラッパを取り出すと、秋の華やかなメロディを吹いてみました。すると、丘から、トロン、と音が聞こえた気がしたのです。青年は窓を開けて、見上げた空に月を探しました。でも、街の小さな窓からは、狭い空のかけらが見えるだけでした。



青年がその金色の鈴を見付けたのは、雪がようやく溶け始めて、丘のてっぺんまで登った時でした。一本杉が冬の間かぶっていた白い帽子をどさりと地面に落として、その音に驚いたウサギが穴から飛び出して、そうしたら、鈴の音がしたのです。

「なんの音だろう?」

青年がウサギの穴をのぞきこんだら、その金色の鈴が落ちていたのでした。

「どうしてこんなところに?」

青年が空を見上げると、そこには月が浮かんでいました。

「久しぶりだね。」

青年は、その金色の鈴をラッパに付けました。



その日からまた、青年は、月が空に浮かぶ時間になると、丘を登り、丘のてっぺんの一本杉に寄りかかって座りました。そして、あの金色の鈴をつけたラッパを吹きました。

金色の鈴を付けた青年のラッパの音は、月が浮かぶ空まで届くと、美しい金色になって月と一緒に夜空を舞いました。春も、夏も秋も、どの夜も、一本杉の丘の夜空は美しい金色に満たされました。月も、満たされていました。



そして再び冬がやってきました。景色が真っ白に固く凍り、雪は青年を街に閉じ込めました。青年は、雪に埋もれた街で、月を想ってラッパを吹きました。



その音は、雪に埋もれて月には届かなかったのだけれど。



月は、青年のラッパの音が聞こえない夜が寂しくて、自分も真っ白に固く凍ってしまいたくなりました。それでも月は、再び丘の道の雪が溶けるのを待つのでした。トロンと流した自分の涙色に染まる、金色の街に見とれながら。




おしまい

photo by chin.gensai_yamamoto





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