自己紹介/及び自分の人生観の基本にあること

自己紹介というか自分の人生観紹介。
※以下を追記
・「普通」ならそれで十分。
・人生に「if」なんてものはないから考えるな
・好きなことをやれ/何もしないよりマシ
・「優しさ」は才能

何かの影響というよりどちらかと言うとこれまでのなんだかよくわからない人生経験から形成された色々な信念が自分の中にあるなと思ったので書き留めてみます。


大人の定義は「自分の加害性を自覚していること」

これは誰の影響でもなく自分の人生経験からそう思うようになった話なんですが、
今ググったら完璧としか言いようがない解説が以下の記事にありました。
もはや自分が言葉を付け足す意味もないほどにです。

蛇足を書くと、どう生きても人は加害するけど、その中で相手から逃げ場を奪うような形で一方的に加害する、あるいは相手の生殺与奪の権利を握りながら加害するような形が一番酷いなと思います。
あと車の免許は(最悪のケースでは理不尽に誰かが死ぬので)取りたくないし、子供はほしいと思えないし、動物すら飼うのはもうよっぽどの余裕がないなら一生やめようと思ってます。猫大好きだけど、猫の命の一生分の責任を俺は負える自信がないので。俺が飼うことによって不幸になる可能性が僅かにでもあるならそれはもう「主体的な猫への加害」に他ならないと考えます。

人生は純度100%の運。それ以外の要素はなにもない

運以外に何かあるんですか?あなたが努力の成果だと思っているそれは本当にあなたが自由意志によって自ら手にしたものだとでも?それが不可能な環境に置かれてる人がこの世にどれだけいると思ってるんですか?って話なんですよね。海外の貧しい国とか治安が悪い国とか戦争が起きてる国とかマジの地獄ですよ。日本に住んでる時点で大抵の努力論はアホらしくなります。そういうこと言ってる人達は自分や自分達が日本の中でも異常なほどのぬるま湯に生きてきた自覚がなさすぎる。そもそも大した障害とかもないんですよね。あと事故や事件にも巻き込まれてなさそう。
「人生は純度100%の運」を否定するのは俺は単に無知だと思ってます。馬鹿ですらない。ただ単に事実としてそうであるというのを知らないだけ。これを理解することも大人の定義と言って良いかもしれません。この事実を受け入れない限りは真の平等の概念にたどり着くことは不可能でしょう。

人生に「if」なんてものはないから考えるな

上の運の話と関連してます。
結局人と比べることがなぜつらいかって「自分もそうだったかもしれない」みたいなifを考えてしまうことにある気がするんですよねぇ。
もしかしたら自分だってこうだったかもしれない、でも自分はそうじゃない、なんで?それが理解できない。だからつらい。
でもさぁ、ifなんて人生にないんですよ。哲学的にあるいは物理学的にどうなのかは知らん。でもさ、あるんだったら早く出してくださいよ。その人生ifってやつを。無理でしょ?じゃあないんですよ。「ここにあるすべて それがもうすべて」なんですよ(Syrup16gのタクシードライバー・ブラインドネス)。
なのでこの人生をただただ「そういうもんだ」として受け入れるしかないです。どういうわけか世界ってそういうことになってるらしいので。

ただ、「ifはない=偶然じゃない→必然である」という通常の論理は人生に成り立たない、と思ってます。
人生という現象は偶然ではないし必然でもない。そういう説明可能な領域を超えた神秘だと自分は思ってます。

社会的な価値

上の運の話と関連してます。

これは「働けない人の価値」というテーマのYouTube動画に自分が残したコメントをそのまんま引用します。これ以上に言葉を付け足す必要はないかなと思います。5か月前だが何も変わってないです。

すごく好きな話題です。
個人的には、そもそも「事実と解釈は別である」というのが前提として大事だと思います。

そして「働けない人に価値があるか」というのはイエス・ノーが客観的に決まる命題ではなく、
「あなたは働けない人にどのような価値を解釈しますか」という話なので、
「働けない人でもこのような解釈のやり方なら価値を与えることが出来る」というやり方自体自分は若干疑問視しています。

要は、「価値というゲームからもう降りませんか」、というような話です。

そもそも人は皆等しく人であり、ただ単に現代の社会システムが様々な理由で様々な形の優劣を与えているだけに過ぎず、
能力がある、実績がある、お金を稼ぐことができる・あるいは出来ないという事実が単なる事実から「価値」や「良い・悪い」に結びついてるのは、
社会全体からそのような教育(あるいは洗脳と言ってもいいようなもの)を受け続けた結果毒されたものだと思っています。

そして、それでも確かにお金のあるなしがもたらす社会的・経済的優劣はあるとしても、
(これは受け売りではありますが)どのような成功も「自分の才能や成果を認めてもらえる時代や国や地域や家庭に生まれた運」というものが必然として背景にあります。
本当の意味で努力一つでどのような運命でも変えることはどう考えても不可能であるにも関わらず、
運が良い人達は自分の運に無自覚で、その結果努力信仰、お金信仰というしょうもないものが生まれているのだと思っています。

ただ、それでも人間の価値・あるいは優劣という概念は、「人間は解釈抜きに事実を理解することが出来ない」という性質上、いつまでもついてまわるものだと思っています。

しかし、この問題はもっと周知されていいような気がします。
なので、こういう話を動画にしてくださり、嬉しいです。ありがとうございました。

好きなことをやれ/何もしないよりマシ

短く言うと、
「これ好きな趣味だけど意味ない気がする。やめようかな」
という人に向けて、
「何もしないよりマシだし、それやめたら何もしなくなっちゃうかもよ。そして「好き」は継続するうえで最高の才能だから、とりあえずやってみると良いと思うよ。知識や経験はたいてい応用が効いて、横に広がりがあるものだよ」というような話です

実体験で語ると、
Web系のエンジニアになったのになかなかWeb関連技術に興味が持てず、
趣味ではゲームプログラミングするか言語処理系の勉強するかのほぼ二択だった時期が自分には何年もありました。
「無駄だったな」と思ってた時期が長いし、やってた最中も「これ、正直意味ないな」って思ってました。
でも、じゃあそれが無駄だったから別のことやってたら良かったか?っていうと、よくわかんないんですよね。多分だけど、「何のやる気も起きずなんもやらないまま数年が経ち…」ということになってた可能性のほうが高そう。
で、あのときに難しいロジックをゴリゴリ書いてた経験上Web系やモバイル系で手が動かないということがなくなったし、
結局思い返すとあれは「何もしないよりマシ」の典型だったんだなぁ、というのを思ってしまいます

今現在も機械学習やってるしやり続ける予定ですが、これをキャリアに意味もたせるのは正直難しいです。でもそんなにやめようとは思わなくなりました。純粋に、「この時間ゲームしてるよりかはずっと意味あるな」、と思うので。少なくともITの範疇ではあるから思考法などで学びは多々あるし。

生きる意味に悩む人に必要なのは答えではなく生活の安定と心身の健康

これは自分自身が本当にそうだったから思う話です。
一応言っておくと普通に精神疾患当事者なのでその目線での話です

「生きる意味とは何か?」みたいなことを病んだ果てに考える人、本当に多いと思います。その結果すごい難しい事を考えに考え尽くしてより絶望し、未遂とか…多分この世に死ぬほど溢れてる話だと思います。

ただ、まあ本当に当たり前な話なんですが、そういう人に本当に必要なのは「生きる意味」という哲学的な問題に対する論理的な答えなんかじゃないんです。
いや本当に。
もし生活がビシッと安定し、心も身体も健康になれたら多分それで「そんな問題が人生にあることすら忘れてた」となるはず。現にそういう人が生きる意味に深く悩んで絶望しているという話を知りません。

考えるべき対象がズレちゃってるんだと思います。それ自体が症状なので仕方ないとしても…。

ストレスや不安の本当に正しい対処法

「正解を探す」が真の問題解決法ではないというのは生きる・死ぬほど深刻な話に対してだけ言えることじゃなくて、
「なんとなく不安、緊張、気持ち悪い」みたいな時にも言えると思います。
そういう時に本当に必要なのは「その不愉快感の原因について真剣に考え尽くすこと」なんかじゃなくて、
ただただお風呂に入って全身キレイにして、髪乾かして、しっかり歯を磨いて、
いっぱい水飲んで、美味しい食事もとって、
全身のストレッチをじっくり時間掛けてフルセットやり尽くして、
全身のツボ押しとマッサージもやって、
ヒーリングミュージックを流しながらホットアイマスクをしてベッドで横になって15分休む。
本当にできればでいいけど、片付けと掃除もしっかりする。

多分これ全部やるのは本当に時間かかるし大変だけど、
やり終えたら大抵の一時の感情はどっかに行ってくれると思いますし、
これを全てやり終えずに今の自分の気持ちが「真の自分の気持ち」だと感じたり思ったりするのは普通に間違ってると思います。

そしてもしこれでもまだ人生の大問題として考えなきゃいけないんだったらそれは本当に問題だとも思います。

考えるのではなく行動することが大事だし、
もし考えるにしてもACTとか認知行動療法とかマインドフルネスとかの臨床心理学で効果が認められている体系的な手法をベースにするべき。
効きますよ、心理療法。怖いぐらいに。

この自分の記事にACTの話を載せてますが、これはACTの内のごくごく一部です。


ベストと可能は違う

「こうすればベスト」と「それが可能である」は全然違うけど、この区別とその重要性はあまり重視されてないのかなと思います。

ベストを100%とするならベストでない方法を取ることによって何%かは確実に失われますが、
その結果失われるものは実は大したことがないというのが大半のケースだと思います。
そして、「それが可能であるかどうか」は結果のある・なしを決定する支配的要因になります。
そのため、「ベストかどうか」に着目するのをやめて「可能かどうか」に着目したほうが良いなと感じる事が人生の全てで多いです。

これは仕事でも個人的な意思決定でも技術や英語の勉強方針でも思うことで、
実際に自分が取り入れたものとしては、
「英語の科学的に正しい学習法」というのがTEDとかで紹介されてたけど、
「確かにこれはできれば理想だしベストなんだろう。でも、自分には現実的に継続不可能だ」と思わざるを得ませんでした。
結局、「無理なく続けられそう」と思ったラダーシリーズを読むことに専念しました。
余談ですが最近はYouTubeの英語学習チャンネル「BBC Learning English」を始めてみたりしてます。
とにかく「ベスト」より「可能」を。これが大事だと思ってます。

「現にこうである」と「それが正しい」は違う

これもすごく色々なことに対して言えるけど、
とてもよく言われる題材を思いつきで取り上げると、
「犯罪に巻き込まれるリスクが有る事をしてはいけない」というのはこの世界の「現にこうであること」ですが、
それ自体は本来正しいことじゃなくて、是正されるべき絶対的悪がそこに確かにあります。

「みんなやってるから自分もそれに加担していい」というような意識は絶対に持つべきではなく、単に善悪の観念がぶっ壊れてると思います。

仕事の「責任を取る」とはなにか

責任を取る=失敗したときのリカバリーをする
みたいに捉えられてると思うし大体の人はそう思ってるんじゃないかなと思いますが、
俺はそれは違うなと考えてます。

具体的には「仕事に責任を取る」というのは、

・何故その仕事をやるのか
・それは本当に必要なのか
・やるべきなのかやるべきでないのか
・やるべきだとしたらそれは何故か
・いつやるべきなのか
それらを全て完璧に理解して説明可能な形にした上で、更にどうすればその目的に対して最大の成果を上げられるのかを想定し、その現実的に実行可能なプランを考え出して、
それらを上司や説明するべき相手に理解して納得して貰える形で適切に説明し、承認を得たらやる…
…というプロセスの事を言うと思っています。

「失敗したら自分がリカバリーをする」というのは責任の本質ではなく、
むしろ「ここまで自分の頭で考えに考え抜いたんだから、間違いなくこれでうまくいくに違いない」と自信を持って行うことだと思ってます。

というか少なくとも俺が仕事に臨む時は、常に100%ではないがこれを指向しています。

人と人は基本的にわかりあえない

これはパワハラ上司や虐待親を見ていてよくわかったことで、
この世には「倫理観がない人間」というのが本当に実在します。

結構普通の人の心を持ってるっぽいのに、なんでか他者を意識がある自分と同一の存在だと全く認識してないし、認めてない。
同じ映画を見たらそれなりに同じように感動してるっぽい。
でも、人の痛みはわからないし、自分の利益のためなら人を害してもいいと何の疑いもなく本気で考えてる。
そして保身のためなら息を吸うように嘘を付く。暴力も振るう。事実を捻じ曲げて自分の都合の良いように周りに吹聴して味方を作る。

どうやったらこんな人達を変えられるんですかね?
俺はもう「不可能」だと思ってます。心の底から。
たとえ人間が何千年も生きれたとしても無理です。
人間の種類として根本的に何もかも違うんです。何億年掛けてもこういう人は変わらないし、それはネズミがタコに変化することが原理上ありえないのと同じような話なんでしょう。

そしてこれはとても極端な例です。しかし現に人間と人間同士でこれほど極端な例が割とそこら中にあるという話でもあります。

割と話が通じてるっぽい人同士ではどうでしょう?
実は分かりあえてるように思えるのは表面上の話で溝があったりするんじゃないかなと思うし、
すごく根本的な部分では実は誰とも理解し合えないのが当たり前なんじゃないかな、自分はそんなことをよく考えます。

それでももし、わずかでも分かり合えると感じる部分があったらそれは多分すごく幸運なことです。大事にしたいです。

「普通」ならそれで十分。

なんか婚活アカウントとかでよく言われる話なので焼き増しみたいですが…

会社で「対話的な意思疎通」というのが出来ない、一方的な命令だけする人がいたことで感じたことです。
普通に会話によりやり取りできて、双方向の意思疎通が可能である。
あまりにも「普通」ですよね。でもそれって保証があるわけでもなんでもないんですよ…
そして対話可能な人と比べると「普通であればそれで十分なんだなあ」と感じました。当たり前のことがどれだけありがたいか…

ITエンジニアとしても、最先端の技術とか難しいことを沢山知ってる必要とかなくて、
普通に必須とされる基本的な知識を抑えてればそれだけで一生重宝されるでしょ、って思います

服も、美容師さんがGU着てるとか聞いたことあるしそんなにお金かける必要って別にないんだなと社会人何年目かで気付きました

平均収入とかも1部の金持ちが上げてるだけで中央値はそこまででもないとか、よく聞く話です

なんだかまとまらない話になりましたが、
「普通」の価値を再考するのは色々な気付きがあっていいぞ、みたいな話でした。

「優しさ」は才能

分かる人は言うまでもなく分かることだろうし、
分からない人はもしかしたら言葉を重ねてもあんま意味ないのかもしれない。

ただ、「優しさ」ってそんなに容易に達成する事が出来ることじゃなくて、
こういう時こう振る舞えばOK!みたいな単純なものとかけ離れた、
意味わからんぐらい難しいもんだと思うんですよ。
極論、知識が無限にないと完璧に誰も傷付けずにいられないと思うし、
あと自分自身の気分だって時々刻々変化し続けてて、その上でセルフコントロールした上で最適解を叩き出す、ということを毎秒続けることで
ようやく暫定的に達成されるのが「優しさ」という困難だと思います。

これ、出来る人よく考えたらめっちゃすごくないですか?出来る人はなんでそんなこと出来るんですか?と思います

要は才能なんですよ、これって。
ついでに言うと人を最も価値付けるものは優しさだと思っています。

蛇足


ほかにもう一つ書くとしたら
「全ての女性は生まれながらにハンデを背負って生きていると思う」というような話題にするつもりでしたが、
これ自体真剣に論じようと思うならちゃんと勉強してからがいいだろうな、と思ったので項目にしないでおきました。
ただそういう意識はかなり強くあるし、多分自分の核と言えるものだと思います。


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