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近世百物語・第五十四夜「黒い穴」

 ある時、和歌山県の自殺の名所に、友人たちと旅行したことがあります。別にそこへ行きたかったのではありません。たまたま目的地付近の観光地が、自殺の名所だったのです。その時、岸壁を歩いて洞窟のような場所に行くことになりました。すると、私の目の前に野良猫がやって来て、足元で脅すような唸り声を上げました。何やら不気味な唸り声は、とても不思議な感じがしました。
 ふと、気がつくと、野良猫が座っている後ろに小さな祠が見えました。その祠が、いったい何を意味するのか、その時は分かりませんでした。しかし、現実問題として祠より先に行くことが出来ないのです。それほど野良猫は激しく唸っていました。しかたなく、私だけは行くことを諦めて、友人たちはその先へ行きました。祠の前を行き過ぎようとさえしなければ、野良猫はおとなしかったのです。
 しばらく猫を見ていると、悪そうなヤンキー風の男女が近くの崖に座りました。そして、あろうことか、自殺の真似をはじめたのです。まるで、自殺した人々をバカにするかのようにヘラヘラ笑いながら飛び込むふりをして楽しんでいます。
——なんて不謹慎なことを……。
 と思いましたが、猫が睨んでいたので、
——たぶん、何かが起きるのだろう。
 と思いました。
 すると、突然、そのふたりの近くに、ぽっかりと黒い穴が出来ました。空間に〈黒い穴〉としか呼べないようなものが、突然、開いたのです。人が出入り出来るくらいの大きさのその穴は、どこに通じているのか、まったく分かりません。ただただ真っ黒な穴としか呼べません。私は、このような黒い穴を何度か目にしたことがあります。『近世百物語』の第四十二話にも少し目撃例を書きました。それは、魔物が出入りする種類の穴だと思います。
 ある時は、私自身が黒い穴に吸い込まれそうになりました。その時は足元に黒い穴が出来ていたのです。
 また、ある時は、小さな黒い穴が出来て、その中から不気味な声を聞きました。死者の笑い声とか、うめき声が、聞こえたこともあります。
 黒い穴はグルグルして、全体に微妙に動いているような気がします。内側から噴出しているような、安物のSF映画に登場するブラックホールのような雰囲気があります。しかも、中から反射する光もなく、まったくの暗闇なのです。

 さて、ヤンキー風の男女の近くに開いた黒い穴の中に、人影のようなものが見えました。見たのではなく、感じただけかも知れません。その人影のようなものは、とても邪悪か、さもなくば陰気な感じがしました。
 その時、
——ああ、これは、自殺した人々の霊なのか……。
 と思い、びっくりしました。
 その瞬間、黒い穴の中の人影が不謹慎な男女に乗り移りました。私はその場でハッとして息を呑みました。
 ふたりは、しばらく下を向いたまま、まったく動かなくなり、ニタニタと不気味な笑みを浮かべて互いに顔を見合わせたのです。
 私はそれを見て、不気味すぎて逃げ出しました。もうそれ以上、そのふたりに付き合うほどの義理もないですし、しかも祓いとかを頼まれてもいません。そのまま無視をして駐車場に戻りました。
 自殺した人々の霊は、死んだその日を繰り返します。144年から死んだ年齢を引いた時間だけ、毎日を繰り返すのです。基本数が144年なのは、人の寿命は12年のサイクルを12回過ごした時間だからです。もちろん、少し長い人もいれば、短い人もいます。病気や不健康な日々を過ごすと、144年から引いた時間が寿命となります。だいたい100年分、毎日、毎日、悲しみに暮れながら、自殺してしまうのです。その間に、生きている人と座標が合うと、憑依して、死に誘います。

 さて、少し落ち着いて、さっきの崖の方向を見ると野良猫がついて来ました。猫は、時々、守ってくれるかのように私に警告を発してくれます。
 夢の中に猫が現れて様々なことを話してくれることもあります。
「猫は、半分、夢の中に住んでいるから……」
 と言っていましたが、
——それは本当のことかも……。
 とも思っています。と言うのは猫が夢の中で言うことは時として正しいからです。
 猫は、黒い穴の番人であるような気もしています。私が黒い穴にかかわる時は、近くに猫がいることが多いのです。鼠のようなものが出て来る時は別ですが、外で黒い穴を見かけた時は、いつも近くに猫がいるのです。

 ある時、黒い穴をたくさん見たことがあります。それは盆の近くでした。見たのは都会の真ん中で、しかも真昼間だったのです。
 歩行者用の赤信号で待っていると、突然、めまいがしました。
 真夏だったこともあり、
——ただの貧血かな?
 と思いました。しかし、貧血にしては奇妙な感じがしました。
 近くに腰掛けて風景を眺めていると、ゆっくりと景色がふたつに別れました。まるでビデオか何かを見ていて、途中が分離するかのように景色が裂かれたのです。そして分離したラインの中から、黒いたくさんの穴が噴き出すように出て来ました。
 私は息を呑みました。
——あっ……。
 と思って見ていると、穴から、やはりたくさんの黒い人影が飛び出しました。人影は輪郭が動いていました。細かく細かく揺れているような感じでした。黒い煙のような人影。そう言った感じでした。
 穴から飛び出した人影は陰気な圧力を持っていました。激しい風が、一瞬、吹き荒れて、目を閉じると、突然、景色が普通の世界に戻りました。
 私はひとりで、ひや汗をかいていました。
 たくさんの不気味な霊たちは、どこへ行ったのでしょうか?
 しばらくして、その場所のあたりで様々な事件が起きたのを聞きました。交通事故や、喧嘩けんかや、その他、考えられる限りの事件が、そのあたりで頻繁に起こったそうです。陰気なものが、その場所に渦巻いて、人の心を蝕んでいたのです。
 それを感じて、
——あの時に見た、陰気で黒い霊たちの仕業なのかも……。
 と思いました。
 それからも、何度か黒い穴が出来るのを見ています。しかし最近は見ることがありません。そう言う場所へ行くことが少なくなったからなのか、それとも別な理由あってのことなのか、知ることは出来ませんが……。

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