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カミュの岩と私の「めまい」:自由の葛藤とノスタルジーの源泉

かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。 この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやりとげられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとにかれをささえているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだじゅう考えているのだ。かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。

『シーシュポスの神話』カミュ著

『シーシュポスの神話』を引用し、彼の伝えたいことを考察します。「私たちは考えることができるからこそ、苦しいということ」について、書きます。

私たちはかつて身長が80cmなかったわけです。それが20年としないうちに背が伸びて、できることが増えました。背の高さが倍近く変わります。その時自分が感じていた天井の高さ、建物の大きさ、仰ぎ見た街路樹、どれも大人になって見に行けば、「こんなに小さかったっけ?」と、自分の記憶と現実のギャップに驚かされます。
ですから、成長は、体だけでなく、私たちの考え方や視点の変化を伴うのだと、前提を共有出来るかと思います。

万延2年(1861年)、江戸小石川の武士長屋で、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として、内村鑑三は生まれました。英語を学ぶときに、友人と英語だけで話そうと決めたエピソードなど、少年らしさを感じます。けれど、日本の近代化を行う、リーダーの役割を期待される層だから、急いで大人になったのだろうと、私には思えるのです。
成長は個人差もあるし、時代の影響もあります。例えば、僕の世代は、祖父母から直接戦争体験を聞くことが出来たし、テレビ・新聞・書籍なども、戦争を経験した世代の声が扱われていました。今は、世代交代が進んでいます。これも、一つの時代と言えるでしょう。
明治と平成は時代背景は異なるけれど、その時代で、私たちが身体的・精神的に成長し、物事を理解し、違う視点を獲得していますね。

この成長と視点の変化は、私たちが過去を振り返るときに「ノスタルジー」を感じる理由の一つだと、ここで指摘します。私たちが過ぎ去った時間を懐かしく大切に思うのは、単に「今はもうない、変化した」ということだけではありません。私たちの思考や視点の変化により、獲得したことは、裏を返せば子どもの頃に言葉にできなかったことを言葉にできてしまうことです。結果、「言葉に出来なかった思いが失われたり遠のいたりする」ことがあります。だから、過去と現在の間にギャップが生じます。

以上を踏まえてカミュの言葉に戻ると、「私たちは考えることができて、考える力と自由を持っているからこそ苦しいんだ」と、カミュは言いたいのだと私は思います。カミュは不条理との対峙を岩を押し上げることに例えました。この苦しみは、人が人である限り生じる「使用料」とも言えます。例えばSpotifyのPremiumのサービスを楽しむには、サブスクに加入し月額980円が必要です。私達が考え、自己決定する自由を享受するには、自由であることの不自由さはセットだと、言えます。

自由の不自由さを別の角度から見ると、「あの頃の私と今の私は同じだけれど、こんなにも違う」というギャップとなり、ノスタルジーの源泉でもあります。かつ、ギャップは、価値観を持ち、アイデンティティを獲得したことから起きる、「めまい」とも言えそうです。ご自身の原風景を思い返されて下さい。誰かに守られ、まだ世界の広さも、言葉にすることも分からなかったあの頃と、ずいぶん遠くまで来てしまいました。我々は、あの頃と、本質的に連続した同じ人物なのに、別人と錯覚するほど、複雑に成長しました。このギャップは、高い高いビルの屋上からの眺めと似ており、私は「めまい」と表現しました。

私にはカミュの指摘した自由による苦悩と、「めまい」は、根を同じくするものに思えます。なら、人が人であることの葛藤と、私たちが抱くノスタルジーの故郷は、案外近くにあると言えそうです。


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