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リバーシブル

 今、目の前に人間が転がっている。
 確認できるだけで三体ほどある。
 確実に死んでいるとは言い切れないが、皆一様に動かない。

 ゆっくりとした動作で、だが決して不自然でないように首を左右に動かし周囲をみる。身体がまるで油の切れ掛かった螺子のように強張っている。
 誰一人僕を見ていないし、そもそも人影もない。車も走っておらず、通りに面する全ての店がピシャリとシャッターを下ろしている。ここから見える明かりは頭上を照らす街灯と、四百メートルほど先にあるコンビニのうっすらとした光だけだ。


 周囲を見渡すのを止め、ほんの一分、腫れぼったい瞼を閉じて、見えたものに意味を見出すのをやめようと努力した。きっと頭がおかしくなったんだ。疲れてるし。もう一度目を開けたら、案外いつもの日常が当たり前のように動き出しているかもしれない。だが、突然目の前に映し出された光景に好奇心は消えない。


(今の全部、本当のことだったらいいのに)


 瞑ったままの瞼にもう一度力を入れると、緊張と興奮で腹の奥が硬くなるのを感じる。瞼を癒着を剥がすように慎重に開けていった。強く瞑っていたからか、始めは星のような瞬きが空中を飛んでいてよく見えなかったが、徐々に視力が回復すると目の前には瞑る前と何一つ変わらない光景が広がっていた。


 やはり死体のようなものが僕の目の前に三体ある。
 呼吸が早まる。眼圧が上がって、周囲がどこも黒ずんで見えた。心なしかそこら中から鉄臭いにおいが漂ってくるような気がしてつい息を止めた。苦しくなって余計にパニックが体中を駆け巡った。


 何とか切れ切れの記憶を辿ってみる。
そうだ、僕は確かにこの背後に聳(そび)え立つ進学塾に今日も昼からいた。今は冬休みだが、控える高校受験の為に冬季集中特訓を受けにやって来ていたのだった。


 空は既に真っ黒な絵の具をぶちまけたように暗く、深い。吐く息は今まで見たどれよりも白く、それは恐ろしいほど美しいコントラストとなってこの景色を彩っている。僕は少し震える足と、興奮から来る嘔吐感でその場にただ立ち尽くしていた。無意識に肩にかけているトートバックを握るとざらつくような音が四方八方に響き渡り、その音で全身が粟立った。今日行われた抜打ちテストの点が、またクラスで一番悪かったことを僕に思い出させたのだ。

 教室の中に残っていた生徒は僕一人だけだった。まだ学生風情の残るあの若い講師は、あまりにも勉強の出来ない僕に欠伸を繰り返しながら補講に付き合っていた。そして僕を時折、思い出したように殴った。服の汚れを叩き払い落すようにスパンスパンと僕の頭は右へ左へと揺れた。今日はまたそれが一段と酷かった。


 冷え切った手で、そこだけが燃えるように熱い右の耳をそうっと触った。乾いた手の皮がそれに触れた瞬間、体中に電気ショックが施されたように弾ける痛みが僕を襲った。どうやら耳が切れているらしかった。血は止まっているようだが、痛みはまだ僕の半分以上を支配し続けている。目の前の動かない死体のようなものをぼんやりと見た。音も空気も弾かない、転がった人間が僕の世界に溶け込み始める。


 覚えている限り外で悲鳴などは聞こえなかった。この三人はきっと殺されるか傷つけられるかしてまだ間もないはずだ。何故なら目の前の死体からは、よくいわれる死臭のような腐った臭いは微塵もせず、新鮮な血液の臭いがあるからだ。所詮素人の考えに過ぎないだろうが、ここに横たわる三人はほんの少し前にこうなったのだろうと思えた。


 この塾には僕とあの若い講師しか残っていなかったはずだ。彼が僕に暴力を振るうとき、それはいつも塾内から人が消え去った後だからだ。時々僕が吹っ飛ばされる物音はしたが、その他に物音らしい音は一つも聞いていない。
 それならばこの死体のようなものはいつ、どうやってここに置かれたのだろう。
 高揚に似た興奮が湧き上がり、それが背筋をなぞるように通り過ぎるのが分かった。


「人間の死体、初めて見たな」


 あえて笑いながら呟いてみた。声を出すといかに濃い鉄の臭いがそこら中にこびり付いているかを痛感し一度だけえづいた。胃の方から搾り出した声が立ち並ぶコンクリートの建物にぶつかるのを最後に、僕の聴覚は途端に鈍くなった。小さな耳鳴りが頭の中で反響しあい充満し、環境音が遠くなると代わりに他の神経が鋭敏になったのか、目に見える光や色彩がどんどん鮮やかになった。

ふと何の前触れもなく急にあの若い講師の卑しい笑顔を思い出して身体が強張った。あの下卑た笑い声が耳鳴りに重なって広がっていく。神経が高ぶるにつれて恐怖で全身が打ちひしがれるのを感じた。
 もう嫌だ助けて!
 とうとうそんな声をもらしそうになった時、遠くから誰かの声が聞こえた。

**


「君! こんな時間に何してるの」
 僕は反射的に下を向いた。自分のすぐ真横に白い自転車が劈くような音を立てて止まったのが見えた。
「顔を上げて。君いくつ? どこに住んでるの?」


 首を傾げるようにして顔を上げると、近くの駐在所から見回りに来たのだろうか、中年の警官が眉間に皺を寄せて返答を待っていた。僕は小さく「十五歳」とだけ告げた。警官は僕の頭に生臭いため息を吹きかけると、すぐに合点のいったような雰囲気を醸し出した。


「ああ、君。ここの生徒さんなの?」

 覚悟していた問いかけとは全く別の、拍子抜けするような質問に思わず警官の顔を凝視した。警官は全く動じない様子で間抜けな顔をしながら突然態度を翻し、


「今まで勉強してたのかい? 頑張ったねえ。ここの生徒さんは皆イイ子だよねえ、優秀だし。そんな生徒さんの安全を守るように先生方からきつく言われてるんだよ」


 まるで世界の倫理が逆転してしまったみたいだ、と僕は思った。警官は僕の目の前の死体などまるで見えていないかのように振舞い続けているのだ。とりあえずこの事態を飲み込もうとするが上手くいかない。そのとき警官が僕の心臓を無遠慮に鷲掴みにするような声を上げた。


「冬枝さんじゃあないですか!」警官は塾の扉を開け、出てきた人影に向かってそう言って続けた。
「こんな遅くまでご苦労様です」


「ああ、深田巡査ですか。そちらこそお疲れ様です」

 鍵を閉める硬質な音が響いた後、僕の鈍くなっていた耳に突然クリアな声音が届いた。

「あれ?」


 来る! そう思った時には既に遅く、僕の恐怖で強張った肩は男の張りのある大きな手に掴まれていた。


「真行寺じゃないか。お前まだこんなところにいたのか」


「やっぱり! 冬枝先生のところの生徒さんでしたか」


 僕は辛うじて冬枝に向かって謝罪の言葉を零した。骨が外れて崩れていくかのように膝がガクガクと鳴り出す。この冬枝こそ、先程まで塾の中で陰湿な暴力を僕に与え続けていた張本人だった。


「寒そうだなあ、真行寺。震えてるじゃないか。受験も近いのだから、こんなところで油売ってないでさっさと帰って勉強しろよ」


 警官に分からないように強く締め上げるように掴んでいた僕の肩を、今度はゆっくりとさするように撫でてきた。規則的な衣擦れの音に、切れた耳の痛みが再びむくりと起き上がり僕を煽る。湧き上がる嫌悪感に、爪が食い込むほど拳を握り締めることで何とか耐えていた。


「そうだぞ少年! ほら、もう二十三時だ。子供は早く帰った帰った!」


 警官が馬鹿みたいに笑い続けている。どこにそんな楽しいことがあるんだ? 僕は光も届かない井戸の奥底に独りで落ちていくような感覚に陥りながら、目の端に転がっている真っ赤な肉を晒した塊をただ見つめた。それが納得した仕草に見えたのだろうか。僕が下を向いた動作に安心したらしい冬枝は、突然僕の背を撥ね付けるように押した。

バランスを崩した僕は後ろを振り向く勇気もなく、ただ解放された安堵を抱いてとにかく一歩ずつ足を前に送り出すことに全神経を集中させた。だが前に進めば進むほど、一番近い死体のようなものが視界にはっきりと浮かび上がってくる。後ろの方で冬枝と警官が「途中まで一緒に行きましょう」と意気投合しているのが聞こえた。

 どうやら冬枝にもこの死体のようなものは見えていないらしい。それが嬉しいような恐ろしいような複雑な感情を抱えたまま、結局僕は彼らの気配が消えるまで歩みを止められなかった。


 彼らの気配が消えたとき、同時に僕の爪先は一体の死体のようなもののほんの数センチそばまで来ていた。近づくとその左耳から首筋にかけてまるで蝋人形のように白く、鬱血した血が妙に青く、美しかった。何故か皆どれも無様な格好で天を仰いでいて、それは電灯の頼りない光を受けてアートのようにすら見える。時間が止まったような静けさの中で、僕と死体だけがそこに在った。誰にも見えない死体。誰にも暴力を振るわれない僕。とても自由だった。


 ようやく死体に慣れてきた僕は途端にその顔が気になり始めた。踏み込んで屈めば容易に見えるその死体の顔を確認できていなかった。大きく息を吐き、慎重に回り込み、身体を屈め、コートや服に死体が触れないように気を配りながら一体の死体の顔を見た。


「え」
 突然胃が収縮を繰り返し、また吐き気が戻ってくる。口元を手で押さえながら、まだ信じられない気持ちでもう一度死体の顔を瞳に映した。
「和井(わい)先生?」


 やっぱり和井先生が死んでいる!
 塾で古文を教えてくれる中年の男性講師だった。冬枝から暴力を受ける僕を知っている人間の一人でもある。


 頭の中で彼が「死体」として実体化するまで、僕はじっとそれを見つめた。脳内を元気だった彼が駆け巡る。つい三十分ほど前に僕が冬枝の虐めから命からがら逃げ出そうとしている中、廊下の隅で缶ジュースを飲み「ほら逃げろ逃げろ~」と煽っていた。


 まさか。
 そう思うのと同時に僕は駆け出した。まるで空を切っているように不安定な走り方だったが一体、一体、死体のところまで飛ぶように走った。そしてそれを足で転がし、その顔を確認した。身体の向きを変えられた死体の手の甲がアスファルトに落ちてベチンという音が奏でられる度に、徐々にプレゼントの箱を開けるときのように胸が高鳴っていくのを止められなかった。そしてその度、想像は現実になった。

その全ての死体の持つ名を僕は知っていた。その三体全員と僕には共通した因果があったのだ。そうだ。この全員が冬枝の僕に対する暴力を知っていた。ひとりは隣町の中学に通う同い年の女で、塾ではいつも僕を何かキモイという理由だけで、僕の下半身の写真を無理やり撮ったものをネットにあげて反応を楽しんでいた。

あとのひとりは冬枝と付き合っていると噂の事務員の女だ。名前すら知らないが、この女も僕が冬枝の暴力に遭っているのを見て見ぬふりしてなかったことにしてきた。そして和井を含めたこの全員が僕をネタに嗤っていたのだ!


「アッハッハハハハ! バカめ! ざまあみろ!」


 突然僕のどこかが弾け飛んで、それが音になって聞こえたような感じだった。
 今の台詞は僕が言ったのか?
 音がやむとまたキーンと耳鳴りが劈く。まるで自分が真っ二つに引き裂かれていくような感覚がして身を捩る。混乱していた。

「ぐっちゃぐちゃ! ぐっちゃぐちゃや!」


 ふと声が聞こえた。その声の主を目を凝らして必死に探す。そのとき、視線の先に音もなく滑るようにしてひとりの少年が現れた。それは突然狂ったように踊り出し、こちらに向って肉きり包丁を投げてきた。つま先のすぐそばに落ちたそれはアスファルトを擦って嫌な音がした。

***


 少年はえらく楽しそうで、気持ちの悪い関西弁を喚き散らしながら、物凄い勢いを伴って近づいてくる。歳は僕と同じくらいだろうか? 
 少年はもっさりとした黒髪を靡かせ、時折思い出したかのように爪を激しく噛みながら、僕の視界いっぱいに入り込んできた。僕は仰け反るような格好で「何ですか」とだけ口を動かした。


「何言うてんねん。笑わせんといてや。殺せばええねん、殺せば。お前知らんの、もう始まってんねんで? ただ切り裂けばええって、ほんまのとこ分かってるんやろ」


 少年は奇妙な笑顔を両手で撫で付けるように消すと急に真顔になり、光を失った瞳で僕を見つめた。少年の顔は長い前髪に隠れよく見えないが、それを差し引いてもこれといった特徴も際立った印象もなく、見た瞬間に忘れてしまうような顔をしていた。

無風だというのに何故かその黒髪はふわふわと揺れている。僕はしばらくポカンと口をあけたままそれを見ていたが、出来るだけ強く自分の太腿の皮をつねり痛みを探し、そこに確かに痛みがあることを確認した。


「あなたに」
しばらくぶりに出てきた声はかすれていた。腹に力を入れて喉を鳴らし痰を切ってもう一度言った。
「あなたにこの死体は見えるんですか?」


「おいおいおいおいおい。冬枝、行ってまうで」


 僕の問いを無視し、少年は僕を下から突き上げるように見上げて言葉と一緒に熱い息を吹きかけた。まるで自分が心臓そのものになってしまったかのようだ。破裂寸前の身体で、頭の中をその名がリフレインするとまともな思考の糸はいとも簡単に断ち切れてしまった。


 誰が殺したとか関係あるか?
 誰かに知らせなくちゃとか、目の前のこの少年は一体誰なんだとか、どうでもよくないか? 
 ごく自然に生まれる正しい考えが全く意味のないものになっていく。
 ていうか、これに頼めば冬枝も殺してくれるんじゃないだろうか。
 死体を挟むように向かい合う僕たちの間に、僕は失くしていたピースが見つかったような感覚を覚えた。夢なんかじゃない。夢なんかじゃないんだ、これは。


 瞬間、肩を掴まれ、揺さぶられる。掴まれたところに先ほど冬枝にされたのと同じ熱を感じる。そうしてまた僕の頭の中身は冬枝で満たされてしまう。意思とは逆にぶんぶんと動かされる。それで僕は、とうとう引き離された。
 耳元で、なあ、と怒鳴られた時にはすでに僕は僕でなかった。


「なあ、お前。お前誰や?」


 少年の獣のような八重歯が視界の端にチラつく。開いたままの口がピリピリと乾いていく。声が出ない。シンギョウジという音を何となく頭の中で唱えてみるが、それが僕と関わりのあるものだとは思えない。


 僕は、誰だ?


「俺がやってやったやろ、見つかったほうが負けやて、お前が言うたんやないか」少年は僕の顎を、茶色く汚れた鉄くさい人差し指で持ち上げながら続けた。
「だから、お前の、負けー」

 カナブンが一匹、空気の層を震わせて、周囲の静穏を掻き混ぜるように耳元を通り過ぎていった。それに似た音を最近どこかで聞いた気がした。ヒントを求めて暗い天空を見上げた僕を無視して、少年はまた話し始めた。


「きったないわー。ほんまにお前は汚い。もう隠れんのは終わりや。俺、お前見つけた。お前、俺に見つかった。約束守れや」


 少年は怒りがつのっているのか早口で何か言っている。そうしてまだぼうとした頭で空を仰ぎ見ていた僕の首を、ほっそりとした両腕で静かに捕らえると、


「あのなあ、望む世界さえ作れへんのなら、もう俺がぜーんぶ貰うわ。もう待ってやらん。お前の頭ン中ガキのしょんべん臭いんや。もう嫌や嫌や。ていうかさあ、ほんまは自分こそこうしたかったんちゃうん? 興奮したやろ、さっき。ムカつく人間全部死んどって、嬉しかったやろ」


 突然少年の声が聞いたことのある、僕にとって一番馴染み深い声音になった気がして冷や汗が湧き出るのを感じた。首が焼けるように熱い。言葉が脳から徐々に形を失っていく。まるでドロドロに溶けた熱いチョコレートの渦の中に脳が浸っているみたいだ。境界が、曖昧になる。


「くるし、い、やめ、て」


 あまりの苦しさに思わず憎む世界に助けを請うた。だがそれは音にしてみるとひどく曖昧で遠く、僕のものじゃないような気がした。いつもなら辛いとき、僕の中には僕の話を聞いてくれる誰かがいた。そいつがいつも頭の中でムカつく奴を何度も何度も殺してくれた。今はただ真っ暗な闇の中に僕がポツンと突っ立って苦しがっているのが見えるだけだ。


「俺はお前で、お前は俺や」


 少年は先程までの少し鼻にかかった高めの声とは違う、僕の知っている、いや、僕と全く同じ声でそう言った。そして僕の首にかけている手の力を強めた。余りの圧痛に目玉が飛び出ていきそうだ。

朦朧とする意識の中で、「追わなくては」とまるで忘れてはいけない呪文のように復唱していた。だが追うべきものが何なのか、既に僕には分からなくなっていた。もうただの音の集合体でしかない。少年は緩慢な動きで僕の額に自分の額を擦り付けると、やはり僕の声で言った。


「これ全部、お前がやったんやん。ほんまは覚えてるんやろ? あの包丁で肉を切り裂き、骨を擦った音を。いつも俺にやらしとったすべてを、今日はお前がやったんや」


 気を抜けば苦しさでズルンと一回転してしまいそうな目玉を少年に向け、その瞳の中のものを見た。その瞬間、発狂が落ちてきた。そこに映っていたのはいつも恐怖に怯え背中を丸めていた僕ではなく、気持ちの悪い関西弁を話す、僕と全く同じ顔をした少年のほうだったのだ。


「冬枝は一番先に殺るって約束したやないか、くそ意気地なしが」


 関西弁が僕の喉を這い上がるようにして出てきた。目の前に映る「僕」はいつの間にか地面に落としていた「僕」のトートバッグを拾っている。首がまだ焼けるように熱い。少年が歩き始めて、僕の足も意思に反して動き出す。

冬枝の帰った方向へ僕らは歩き出している。けれど何かがおかしいと僕は思う。僕は寒さも感じないし、僕の意思で見たい方向へ首を動かすことも筋肉を動かすことも出来ない。僕の見ている世界はまるで誰かの瞳を介して「見せられているもの」のようだ。そう、それは着ぐるみの中に入ったような、感覚。


 気づくと、その瞳の向こうには先ほどまであった一体の死体もないのだった。瞳の持ち主はわざわざそれを僕に確認させるようにゆっくりと嬲るように世界を見渡し言った。


「どうや、手品みたいやろ。本当に望めばなあ、世界かて手に入れられるんや」


 突然箱が揺れ出して視界がぶれる。走っているのか。息苦しいのに、体中に新鮮な血液が回ると高揚が天井知らずに上昇していくのが分かる。


「これから全部始まるで。お前が思たこと全部ほんまにしたる。黙ってそこから見とけ」


 手のひらに固いものが握られた感覚がある。重たくて手首に負荷がかかるが馴染みがいい。もうすでに何度か手にしたことがあるもののようにすら思える。それが何なのか、容易に検討がついているが僕はまだそれを受け入れられない。恐ろしさと同時に幼い頃に抱いた全能感に似たものに、勝手に細胞を呼び起こされているのを感じる。

やがてふたつの穴からひとつの人影が見えてくる。車もなく人も通らない。街灯すら暗く月も出ていない。警官はどこへ行ったのか、あの錆びたブレーキ音も聞こえない。まるで用意されたような舞台に悦びが込み上げた。

そうだそうだ、その調子やという声が届く。それと同時にふたつの穴が黒い背中でいっぱいになり、手のひらに重い抵抗が走った。それから「痛い! 痛い!」と叫ぶ冬枝の声と、足に飛び散る鮮血を見た。ゴッと硬いものがアスファルトを打つ音がして、犬のような短く浅い息がメトロノームのように規則的に鳴るのが聞こえた。


 ”最初の死体”をまたいだ瞬間、ふたつの穴から冬枝の細いフレームの眼鏡が落ちているのが見えた。手のひらにぬめりを感じている。手にしたままの固いものを握り直し、黒いダッフルコートのポケットへそのまま突き入れる。感覚を追っている。


「次はどいつにしようかなあ」


 少年は言って歩き出した。僕は箱の中でその揺れを楽しんでいる。もう怖さはなかった。そのうちどんどん感覚の鋭さは遠のいて、ふたつの穴から見えるものも手のひらに感じる手触りも、まるで物語を読んでいるときのようにまず記憶や想像を呼び起こしてから紐づけているような感覚になる。すべては他人事のようで、VRの仮想現実を体験しているみたいだ。


 これもいい。いや、こんなのでいい。
 思うと同時に僕の声はそれから誰にも届かなくなった。(了)




最後までお読みいただきましてありがとうございますっ。

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