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乾くということ


1.冬の乾き

この季節、非常に空気が乾燥していますが、私たちのからだも思っている以上に乾いています。

肌が荒れたり、指先がひび割れたり、唇が切れたり、目が疲れやすかったり、頭が重かったり、気持ち悪かったり、痰が絡んだり、鼻水が出たり、手足が冷えたり、足をつったり、風邪を引きやすかったり…。

もし最近そんな変動があるのなら、乾きの影響が出ているかも知れません。

冬の乾きというのは、何故か私たちはあまり自覚できません。

夏に汗をかいて水分が足りなくなるのは「ノドが渇いた」と自覚しやすいのですが、冬の空気の乾燥によって肌から徐々に水分が失われていくのは自覚しづらいのです。からだにはっきりと水分を捨てている感覚がないのかも知れません。

だから冬は「ノドが乾いた」という気分にもならないままに水が足りなくなって、「隠れ脱水」なんて呼ばれる状態になってしまったりもするのです。

ですから冬は、意識して「水を摂る」ということが大切です。

ですが、ただ漫然と水を飲むだけだと、あまり吸収されていく感じもなく、ただ何となくトイレが近くなって、飲んだ分だけ出ているような気がする…という感じになりがちなので、そのときに整体的なコツというものがあります。

何かというと、飲む前にまず「水が欲しい!」というからだの要求を亢めるのです。

これはどんなことにも言えることですが、何かを吸収したいと思ったら、まず要求を亢めてから行なうと、ぐんと吸収が良くなるのです。栄養の吸収でも、知識の吸収でも同じです。そしてまたそのように吸収すると、感覚的にも快く満ち足りた感じがするのです。

ではどうやって「水が欲しい!」という要求を亢めるのかというと、まずからだから水を奪うのです。つまり汗をかいて古い水を捨てさせるのです。

この時期、お風呂に浸かってからだが十分に温まってくると、急にノドの渇きを感じたりしますが、それは「からだが乾いている」ということなのです。

秋になると、小さな子どもがお風呂のお湯をコッソリ飲んでいたりすることがありますが、それはもう乾き始めの合図と思ったら良い。

乾いてからだの水分が減っていることにまったく気がついていなかったものが、お風呂で温まっていざ汗をかいて水を捨てようという段になって、「あ、水が全然ない!」ということに初めて気がつくのでしょう。

そのときまさに目の前に水があるのですから、それはつい飲んでしまっても仕方がないというものです(笑)。

そうやって、からだに「水が足りない!」ということに気づかせてから水を摂ると、圧倒的に吸収が良くなるので、この時期はお風呂に入るときに水を持って入って、お風呂に入りながら飲んだり、あるいは出てすぐに飲んだりすると良いのです。

またお風呂で水を飲めば分かりますが、要求が亢まってから飲む水はとても美味しく甘みを感じます。きっとからだが喜んでいるのでしょう。良い出会いには快い感覚が伴うものです。水は、自分が「美味しい」と思う水を飲めば良いと思います。

2.乾くということ

野口晴哉は「乾く」ということについて、著書の中でこんなことを述べています。

『人間の皮膚は生きている限り、湿度を失わぬものである。どんな時に乾くか。ギョッとしたり、望みを失ったり、空腹が長く続いたり、裡の弾力の欠けたときに生ずる。乾くことも、体の言葉として読む可きであろう。』

野口晴哉『体運動の構造 第一巻』

空気が乾燥して、からだが乾いてくるというのは誰でも空想しやすいかと思いますが、野口晴哉は「ギョッとしたり」「望みを失ったり」したときに乾くと言います。

「そんなことで乾くの?」と皆さんは思われるかもしれません。そんなことでも「乾く」のです。というより「乾く」とはそういうことなのです。

言葉というのは面白いもので、一つの単語にいろんな意味が込められていたり、あるいはまったく違う分野のものを同じ単語で表現したりします。

たとえば「適当」という言葉は、「ちょうど良い」という意味にも使いますし、「だらしない」とか「いいかげん」という意味にも使います。

あるいは「あたたかい」という言葉は、物の温度に使ったり、色味に使ったり、人柄を表現するときにも使います。

言葉のこういう性質は日本固有のものではなく、世界中の言語に見られることですから、どこか人間の認知構造の中に、物事の概念を把握するときに横断的に使われる感覚のようなものがあるのではないかと思います。

たとえば「乾く」という言葉にも、いろんなニュアンスがあります。「あの人は乾いている」という言葉を聞いたときに、皆さんはその言葉にどんな印象を受けるでしょうか? ただ「肌が乾燥している」という意味以外にも何か違う印象を受けるのではないでしょうか。

そういう表現は単なる比喩以上に、覚束ないながらも非常に繊細なある種の感覚や印象をうまく捉えていることがあるのです。

整体のような「感覚」を中心として組み立てられている技法においては、物事を明確に認識分析するよりも、覚束ないものを覚束ないままに取り扱ってゆくことが必要なことがあります。

つまり言葉の意味を、あまりエッジを立てずにどこかふわっとさせてやわらかなままにしておいた方が、物事をうまく把握できたりすることがあるのです。

現代の思考は「客観性」というものを重視するあまりに、そうでないものをないがしろにしがちですが、私たちの感覚や内的世界というものは、極めて個別で独特な雰囲気でもって立ち現れてくるものです。

そこではある意味、客観性という視点こそがファンタジーです。

だって私の感じている世界を、私以外の誰が言語化したってそれは「きっとこういうことだろう」という空想に過ぎないのですから。

あらゆる言葉には、そこに込められた背景やまとった雰囲気というものがあり、それを感じる独特の感覚というものがあります。

「他人と対話をする」ということは、その感覚を駆使して、その人の感じている環世界に限りなく同調して焦点を合わせてゆくようなそんな身振りであって、言葉はそのための手がかりの一つに過ぎません。

上記の野口晴哉の言葉も、「乾く」という言葉を文字通り解釈しようとするとなんだか因果関係が飛躍しすぎて途方に暮れてしまいますが、あまり言葉のエッジを立てずにふわっと読むと、言わんとするニュアンスが伝わってくるかも知れません。

「乾く」という現象一つ取っても、そこで起きていることは非常に多面的で奥行きのあるものなので、それを現わす言葉のハンドリングも締め付けすぎずに、余白を大切にしたいものです。

ところで「乾く」と言えば、かつて詩人が鋭い言葉を残してくれました。ときどき思い返したい言葉の一つです。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
  …中略…
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子『自分の感受性ぐらい』より

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