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【短編小説】注釈男 世界は踊る 第4話

【第4話】
 あの日、注釈男として覚醒した僕のたったひとつの目的は、悠里の不貞の真実を暴くことだけだった。

 悠里の写真を見ればすぐにでも注釈を確認できたけど、僕は直接会ってそれを確認して決着をつける道を選んだ。なぜか、そうしなければならないと強く思ったのだ。

 悠里の居場所については、今度は迷うことなく探偵事務所に頼み、少々時間はかかったもののじきに判明した。車で2時間ほどの誰も知り合いのいない遠くの寂れた街で悠里はひっそりと暮らしていた。

 たぶん会うことを拒否するだろうと思いながら、悠里が借りている人気のない通りの安アパートを黙って訪れた。ミンミンゼミの声だけが甲高く鳴り響く、とても暑い夏の午後だった。

 ドアのチャイムを鳴らすと、しばらくしてカチャリと鍵を開ける音がしてドアが細く開いた。

「…中に入って。」

 悠里は、まるで僕が訪れるのを覚悟していたかのように、思いのほかあっさりと部屋の中に招き入れた。家の中でもいつもきっちりとした服を身に着けていたのに、かなりラフな部屋着姿だった。化粧っけのない顔は青白く、頬がこけて別人のようだ。

 悠里は自分に付いた注釈をさらけ出したまま、すっかり諦めた様子で生活感のない部屋の壁際に座り込んだ。むき出しのフローリングの上にローテーブルだけが置かれた、テレビもエアコンもない殺風景な部屋。その奥に、場違いなセミダブルベッドが置かれている小さな寝室が見えた。窓は開け放たれているが、風はなく、部屋の空気は澱んでいた。

 僕は吹き出す汗を拭いもせずにフローリングに無造作に座り、そして、あらためて悠里の注釈を確認した。

『無職 川原悠里30歳、前勤務先カフェeternalオーナーの夫・岸田公彦36歳と10か月前からW不倫。現在、継続中。夫と離婚協議中。前勤務先解雇。慰謝料2百万円の支払い義務あり。過去6年2か月前から2年2か月間、夫の上司鈴木正義42歳と不倫』

 吐き気がこみ上げてくるが、必死にこらえた。
 そして、うなだれ黙り込んだままの悠里に僕は静かに語りかけた。

「うん。じゃあ、お前のその華々しい注釈を整理してみようか。まずは昔の話からだ。鈴木部長からお前を紹介されたのが、結婚の1年前。その時お前は部長とずぶずぶの不倫関係にあったってわけだ。で、結婚する直前までしれっと二股をかけていたんだ。」

「どうりで鈴木部長がこの間から会社に出てこなくなったわけだ。過去の不倫まで注釈の対象になったからね。不倫相手を部下に紹介したなんて、ましてや結婚式でにこやかに仲人まで務めたなんて知れたら、世間体が悪いどころの話じゃないもんな。外道もいいところだ。笑っちゃうよな。今までアイツのことを尊敬していたんだぜ。」

「あれだけ強気にベラベラ嘘を吐いていたけど、昔から不倫をするような女だったんだな。しかも今だって、相手の奥さんにバレて、職場をクビになって、慰謝料まで請求されているのに、まだ関係を続けているなんて一体どういう神経をしているの?馬鹿なの?」

「僕が前に浮気を問い詰めた時、大した証拠がないのが分かってどんな気持ちだった?ラッキーって思った?僕のこと馬鹿だって思ったでしょ?僕も、ちゃんと証拠を集めてから君と対峙すれば良かったって何度も思ったよ。今、君の頭の上にある注釈をどう思う?それは法的証拠にはならないんだってさ。でも、それが紛れもない真実だってことを世界中の人が知っている。違うなら、違うって言ってみろよ。」

「お前は、『現在不倫中』 の短い注釈だけで実家を追い出されたのに、こんな華々しい注釈になっちゃったらもう二度と実家の敷居なんて跨げないよな。お前の親だって写真かなんかで今の注釈をもう見ているだろ。それにその注釈じゃ恥ずかしくて外だって歩けやしない。これからどうするの?僕の知ったことじゃないけどさ。」

「自分の家庭を壊して、千帆との関係も壊して、親との関係も壊して、相手の家庭も壊して、こんなところで隠れるように暮らして、いったい何をしたいの?注釈が付かなかったら、一生隠し通せると思っていたの?いつかこうなることを想像もしなかったの?」

「でも、千帆が僕の子だって分かって安心したよ。注釈は全ての真実を教えてくれるからね。お前にもそのくらいの道徳心はあったってわけだ。落ち着いたら、お前の実家に行って千帆を返してもらうことにするよ。お前だって、そんな注釈を一生付けたまま千帆と暮らせないだろう?」

「あ、そうだ。僕も慰謝料を請求できるんだよな。お前と岸田公彦君に。鈴木部長は結婚前だから無理か。残念。でも一発くらい殴ってもいいよな。どうせ、部長にも注釈がついているから会社には戻ってこられないだろうし。」

「本当は、ここに来るまで、注釈をこの目で確認してからお前を殺したいとさえ思っていたんだ。今までこんなに人を憎んだことはなかったよ。でも、やめた。このままお前が生きていくことが最高の復讐になることが分かった。だから生きろ。これからも注釈を背負ったままとことん生き続けろ。」

「離婚届はしばらく出さない。夫としてお前の注釈がどのように変わっていくのか見せてもらう。ここに来ることはもう二度とないけれど、お前の写真でも見て確認するよ。でも、せめてその『継続中』 の文字だけでも消えない限り、千帆に会うことなんてできないんじゃないのか?」

 僕は、ただ悠里を傷つけるただけに、悪意を込めて責め続けた。

 こうすれば気持ちが少しでも晴れるかと思ったけれど、酷い言葉を吐けば吐くほど、僕の心はどんどん冷めて澱んでいった。全身から流れ落ちる汗が冷たい。

 こんな事をしたかったのだろうか僕は。
 悠里はうなだれたまま身じろぎひとつしない。
 セミの鳴き声はいつの間にかヒグラシに変わっていた。外は薄く闇が落ちかかっている。

気が付くと静かに涙を流しているのは僕の方だった。

 
 僕は、次の日から有給休暇を取って、寝ることも忘れて昼も夜もひたすら泡盛を飲み続けた。こんな時でもまだ泡盛を美味いと感じられる僕はたぶんどこか壊れているのだろう。
 そして、酩酊しながらとりとめもなく考え続けた。

 注釈は悠里を社会的に抹殺するほどのダメージを与えたけれど、結局、注釈が教えてくれる事実はそれ以上に僕の心をズタズタに切り刻んだ。注釈は諸刃の剣だ。切られるのは本人だけではない。周りの人間全てを巻き込んで容赦なく傷つける。

 そして、これが、僕が自ら望んだことの結果だ。

 世界中のあちこちで多くのものが壊れ、多くの人が死んでいるが、それは僕にとってどうでもいいことだ。
 僕の心から吹き出し続けるこの血をどうやったら止めることができるのか。それだけを知りたい。
 結局、ひとつだけ分かったことがある。
 少なくとも、僕はこれ以上新しい傷を作りたくない。新しい血を流したくはない。
 新しい事実は新しい傷を作る。知らない方が良いことだってある。

 

 もう、やめよう。
 これが、注釈男の意思だ。

 僕はすぐさまいつもの掲示板に書き込んだ。
「やあ、僕が注釈男だ。もう注釈はおしまいだ。祭は終わった。」

そして倒れ込むように深い眠りに落ちた。

 

 注釈の朝から2か月、全世界から突然注釈が消えた。

(続く)


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