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【短編小説】注釈男 世界は踊る 第3話


【第3話】

 久し振りに見た悠里は、人の目を避けるように足早に買い物をしていた。だけど、真っ赤な矢印が付いている以上目立たないわけがない。

 僕は、背後からこっそり近づいて、悠里の耳元でささやいた。
「お前、やっぱり不倫していたんだな。」        
 悠里は、「ひっ!」と小さく叫んで振り返った。
 そして僕を見て、驚愕の表情を見せた。

「なんで!あなたが!ここに!」

「偶然ここに来ただけだよ。積もり積もった話もあるからちょっと外で話をしようか。」

 僕は勝ち誇ったように告げると、買い物カートを残して半ば強引に悠里を外に連れ出した。駐車場の端に停めてあった僕の車の後部座席に悠里を押し込むと、続けて僕も隣に座った。
 僕が話し始める前に悠里は強気に喚き立てた。

「これはあなたと別居した後に新しい人とつき合い始めたから付いたのよ!あなたが離婚届をいつまでも出さないからこんなことになっちゃったのよ!ちゃんとした恋愛なのに不倫みたいな恰好になっちゃったじゃない。あなたの責任だからね。なんとかしてよ!」

 相変わらず弁の立つ女だった。
 あれほど悠里を愛していた自分の気持ちが雲散霧消してしまったことに驚きながら言った。
「まだそんな嘘を平気でつくのか。最低だな、お前。ところで千帆はどうした?」

 悠里は一瞬言葉に詰まったが、弱々しく答えた。
「こんなものが付いちゃったから、私一人実家を追い出されたのよ。千帆は実家にいる。みんなあなたのせいだからね…。」

 前から、厳格で外面ばかりを気にする苦手な義両親だったけど、ここまでするとは少々驚いた。千帆のことは心配だけど、こんな女と一緒にいるよりはマシだろう。

 どこまでも自分の非を認めない悠里にとことん嫌気が差して、車から手荒に放り出した。どこに住んでいるのかも聞かなかったけど、もうどうでもいいと思った。
 この時、悠里から一言でも謝罪の言葉があったなら、不倫した人々がこれ以上不幸になることもなかっただろう。


 その日、赤い矢印出現でこれまでなかった程の盛り上がりを見せているネット掲示板に、僕は久しぶりに顔を出した。みんな僕の以前のダメっぷりを覚えていたけど、今日あったことを恐る恐る書き込むと、一斉に祝福の声が沸き上がった。

 お前の妻は非を認めなかったけど、結果的に妻は罰を受けている。
 勝者はお前だ。
 よくやった。さあ、みんなで乾杯だ!

 僕は、さっき買ってきた泡盛を飲みながら、ネット民と盛り上がり、そして酔った。今夜の泡盛は一際美味い。
「『現在不倫中』の注釈だけでは物足りない。」
「奴らにさらなる鉄槌を!」
「奴らの息の根を止めて欲しい。」
「誰だか知らんけど、どうせ注釈を付けてくれるならもっと詳しく付けてくれたら良いのに。年齢とか相手の名前とかいつから始まったとか。そしたら妻の嘘も暴けるのに。」

 酔っ払った僕の書き込みは多くの賛同を得て、気分が良くなった僕はいつの間にか寝落ちしていた。

 
 次の朝、注釈にようやく慣れてきていた世の中は再び騒然とした。
 注釈が、突然詳しい説明を始めたのだ。

 不倫中の注釈を頭に付けながらも開き直って外に出始めた人達も深刻なダメージを受けた。

 真っ赤な矢印の注釈には、

『山田希美28歳。柏田達郎32歳と3年2か月前からW不倫中』

『石田邦夫48歳。木崎奈美恵27歳と半年前から不倫中』
『石田由紀子44歳。高田文也30歳と2年7か月前からW不倫中』
『石田彩音19歳。笹山正55歳と3か月前から不倫中』

『佐々木和彦29歳。上川芳江52歳と6か月前から不倫中』

『大木成男65歳。平塚道子64歳と5年1か月前からW不倫中』

『鈴木真知子45歳。田中克巳46歳と21年4か月前からW不倫中』

 これで、不倫をしている人々は完全に外を出歩けなくなった。
 情報の内容があまりにも具体的過ぎる。自分の身元が特定されるだけではなく、完全に相手も巻き込んでしまう。

 不倫された妻や夫はこの注釈を元に離婚しようとしたり、慰謝料を請求しようとしたが、裁判所は注釈は法的証拠にならないと判断するようだ。 

 ここに至って鈍感な僕もようやくおかしいと思い始めた。あまりにも出来すぎている。自分の希望通りに注釈が変わっている。
 いや、そもそも僕が願ったから注釈が付き始めたのではないのか。

 僕はその疑念を確かめるため、これまで注釈のことを願った時の状況を思い返してみた。「注釈の朝」の前夜、そして昨夜。僕はどうしていた?どんな状況だった?どんな風に願った?
 酔っ払っていたのは確実だ。注釈を願ったのも確実だ。願った後に寝落ちしたのも確実だ。そうだ、両日とも飲んだのは泡盛だった。

 その晩、もっと詳しい注釈にしてみようと、会社帰りに買ってきた泡盛を飲みながら、酔い、願い、眠った。
 しかし、何も変わらなかった。酒の種類を変えたり時間を変えたりしたが変わらなかった。

 やっぱり気のせいだったのか?いや、それにしては出来過ぎている。
 あの時と何が違うのか?

 そうか。
 ただ注釈を変えてやるという気持ちでは根本的に違う。僕はあの時、悠里を追い詰めてやろうと強く思った。悠里以外の奴らのことなんてどうでもいい。漠然とした望みではなく、誰のためでもなく、自分自身のためにそれを望んだ。全ては僕自身のために。

 確固たる意志の下、泡盛を飲み、酔い、僕は願う。

 次に悠里に会った時に僕は全ての事実を知りたい。相手のこと、今どうなっているのか、過去にも過ちはなかったのか、それから映像にも残せるようにしてやる。世界中の人がアイツの注釈を見られるようにしてやる。全てをさらけ出せ。
 変われ、注釈。全ては僕の欲望のためだけに。

 僕が…注釈男だ。


 次の朝、世界が震えた。

『ワールド商事勤務山田希美28歳。勤務先上司柏田達郎32歳と3年2か月前からW不倫。現在、継続中。夫と離婚協議中』

『未来出版社勤務石田邦夫48歳。勤務先部下木崎奈美恵27歳と半年前から5か月間不倫。現在、破局。青森支社に異動』
『主婦石田由紀子44歳。大越スポーツジム勤務高田文也30歳と2年7か月前からW不倫。現在、継続中。過去3年2か月前から9か月間、桐朋大学学生如月郁哉23歳と不倫。過去3年6か月前から半年間、ゼネラル電気勤務大越忠彦27歳と不倫。過去6年9か月前から5年10か月間、神明食品社長大河内祐正76歳と不倫』
『豊明大学学生石田彩音19歳。豊明大学教授笹山正55歳と3か月前から不倫。現在、破局。休学中。』

『無職佐々木和彦29歳。前勤務先川上建設社長婦人川上芳江52歳と6か月前から不倫。川上建設を解雇されたのち、川上芳江と事実婚。過去2年9か月前から1年間、前勤務先川上建設営業部長婦人三田澄江50歳と不倫。』

『無職大木成男65歳。主婦平塚道子64歳と5年1か月前からW不倫。現在、継続中。離婚確定後、平塚道子と再婚予定」』

『主婦鈴木真知子45歳。東京都職員田中克己46歳と21年4か月前から21年3か月間W不倫。現在、破局。次男北関東大学学生鈴木武彦19歳は田中克己との子。』

 不倫をした過去がある者もあらたに注釈の餌食となった。自分だけは助かったと安堵していた者たちも奈落の底に堕ちていった。

『大東亜デパート勤務氷室明音36歳。過去2年2か月前から2年2か月間、陸上自衛官山路昭彦30歳と不倫。過去5年前から2年4か月間、名西高校教諭品川智彦52歳と不倫。』

『品川興産会長墨田雄一72歳。過去32年4か月前から3年間、元部下鈴木貴子享年40歳とW不倫。鈴木病死のため自然消滅。』

 そしてありとあらゆる映像にも注釈が付いた。テレビ、映画、写真、過去のものも含めた全ての記録媒体。

 その結果、祝福されて結婚したばかりのアイドル、清廉なイメージの若手女優、理論派のアナウンサー、不倫を追求するのが売りの芸能リポーター、昨年MVPを獲ったプロ野球選手、人権派の弁護士、とっくに亡くなっている文化勲章を授章した芸術家、ミシュランガイド三ツ星レストランのシェフ、3人の子どもを持つセクシーママタレ、首相経験のある国会議員、フェミニストの大学教授…ありとあらゆる業界の有名人の不倫が暴かれた。

 不倫中の者も過去に不倫した者も次々と全ての真実が明かされていく。真実の業火はあらゆる幸せを破壊し焼き尽くす。既に亡くなった者の家族の幸せな想い出さえも。

 たったひとつの注釈で世界は混沌に包まれていく。これから数々の淘汰が行われていくのだろう。

 しかし、肝心の僕は、あれ以降まだ悠里に会っていない。何も終わっていない。これからが始まりだ。世界がどうなろうと僕には関係がない。
 悠里の注釈を早く見たい気持ちもあるが、画像で確認することはやめる。
 直接お前に会って確認してやろう。

 待ってろよ。どこに隠れていても、必ず探し出して会いにいくから。

(続く)



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