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【短編小説】注釈男 世界は踊る 第1話

 僕は世界を変えようだなんてこれっぽっちも考えたことはない。
  勝手に変わっていったのはお前らだろう?

【第1話】

 僕は、中堅の総合商社に勤める中肉中背32歳のどこにでもいるサラリーマンだ。業務成績は良くも悪くもないけど、会社では営業係長を拝命しているくらいだからそれなりに評価はされているのだろう。

 稼ぎはそれなりだけど、4年前に結婚した30歳になる聡明な妻の悠里と3歳になる可愛い娘の千帆がいれば他には何もいらないと思っている。つい先日、3人の生活をもっと大事にするため、ちょっとだけ無理をして35年ローンを組んで家を新築したばかりだ。悠里は、自宅近くのカフェでパートをして家計を助けてくれるし、千帆は元気いっぱいで保育園に通っている。これ以上の幸せがあるだろうか。

 だから僕の趣味は妻と娘だけなんだけど、実は悠里に内緒でちょこちょこネット掲示板に書き込みをしている。ちょっとした息抜き代わりだ。自分で言うのもなんだけど、非常に温厚で争いを好まない性格の僕にとって精一杯の冒険だ。

 毎日は平凡に過ぎていくけれど、僕は平凡こそが一番の幸せだと思っている。大昔のなんとかというバンドも歌っていたでしょう?何でもないような事が幸せだったと思うって。



 そんな平凡だけど幸せな毎日は崩れ去るのもあっという間だった。桜の花も散り始めたうららかな日、ちょっと離れた街で営業をしている時に、悠里が見知らぬ男と親しげに小洒落たレストランに入っていくのを見てしまった。二人の寄り添う距離は誰が見ても恋人同士のそれだった。絶対に見間違えじゃない。こんなに愛している悠里を見間違えるはずもない。

 その日は疑心暗鬼に陥ってしまい、仕事も全く手につかず、お得意様との商談でもミスを連発してしまった。同行していた部下も呆れ顔になっていたけど、正直それどころではなかった。気もそぞろに定時で家に帰り、すぐに悠里を問い詰めようと思ったけれど、逆に、真実を知ってしまうのも怖くて、歯を食いしばって我慢をした。

 友達もろくにいない僕は、こんな時に相談する相手もいない。だからネット掲示板で顔の見えない無責任なヤツらの意見を聞くしか方法がなかった。悠里のことは、ほとんどのヤツらが黒だと決めつけにかかった。早く証拠を集めろ!探偵を雇え!の大合唱となった。それでも悠里を信じたい僕は、ヤツらの煽りにいちいち「でも」だの「だって」を繰り返し、大顰蹙を買うはめになった。

 探偵を雇うほど腹を括れなかった僕は、自分で細々と悠里の動きを探ったり、身の回りの物をこっそりと調べたりした。悠里が千帆と風呂に入っている間にスマホの中を見ようとしたけど、パスワードが分からなかったのですぐに諦めてしまった。注意して見ていると悠里には明らかに不審な行動があったけれど、決定的な証拠を見つけることができず、時間だけがズルズルと過ぎていった。

 悠里を街で見かけてから2週間が過ぎた。鬱々とした気持ちで毎日を送っていた僕は、ろくに行動も取らなかったくせに精神的に限界に達してしまった。愚かなことに僕は、中途半端な状況証拠しかないのに発作的に悠里を問い詰めてしまった。

「この前、君が僕の知らない男と一緒にレストランに入っていくのを見た。随分仲良さそうだったけどどういう関係なの?」

「…いつの話?どこのレストランのこと?…見間違いじゃないの?」

「いや、絶対に君だった。それに、この頃君の行動もちょっとおかしいから心配なんだよ。」

「…何か証拠でもあるの?」

「…」

 聡明な悠里は、決定的な証拠がないと知るや突如不倫どころか僕自身も全否定しはじめた。

「バッカじゃないの!私、知らないわそんなの。妄想は止めてよ!ずっと思っていたけど、あなたのそういうウジウジねちねちしたとこが大嫌い。ついでに言わせてもらうけど、平凡過ぎるあなたにもうんざりしている。あなたは生きていて楽しいの?私はもっと楽しく生きていきたい。」

 次の日の朝早く、悠里は千帆を連れて実家に帰ってしまった。いつの間に用意していたのか、テーブルの上には悠里の名前が書かれた離婚届が無造作に置かれていた。千帆の親権の欄にも悠里の名前が記入されている。つまりは、前々から離婚を考えていたということだろう。
 結局、あの男との関係についてはうやむやで、財産分与や養育費の話さえ全くないまま、離婚届は僕の手元にある。悠里の実家は相当裕福なので、お金のことはさほど問題にしていないのだろう。

 それにしても、気が遠くなるほど長いローンを組んで家を買ったばかりなのに、あまりにも酷い仕打ちだ。悠里だって喜んでいたではないか。離婚するんだったら家なんて買うわけないじゃないか。僕は頭を抱えるしかなかった。

 悠里と千帆が家を出てから1か月。その間、なんの音沙汰もなく、こちらからの連絡もつかず、最愛の娘にも会えなかった僕は精神的に大いに荒れていた。仕事もすっかり投げやりになってしまい、僕らの仲人を買って出てくれた鈴木部長からあっけなく閑職に追いやられてしまった。慕っていた部長から、たった1ヶ月で簡単に見放されるとは我ながら情けない話だ。

 新たに配属された部署はドラマでもよく出てくる資料編纂室ってところだ。こんな部署本当にあるなんて今まで全然知らなかった。
 仕事といっても、全く使えないと烙印を押されている定年間際の松木さんと二人で資料の整理をするだけだ。他にやることもなく、時間潰しで書き込んだネット掲示板でも負け犬、無能と罵られ、クズ認定され、もう何処にも居場所がなくなってしまった。

 あの時、ちゃんと証拠を集めて悠里を問い詰めていれば何かが変わっていたのだろうか。離婚という結果は変わらなかったかもしれないけど、こんなにもプライドが傷つくことはなかっただろう。今更ながら自分のバカさ加減に呆れ、強烈な自己嫌悪に陥ってしまった。

 その夜、僕は散らかし放題のリビングで、大事に取っていた沖縄出張土産の泡盛をガブ飲みして盛大に酔った。孤立無援の僕だけど、泡盛を美味いと感じられるうちはまだ生きていける。

「こそこそ不倫しているやつらは、誰もが一目で分かるようなレッテルを張られればいいんだ!そして世間に恥を晒せ!みんな地獄に堕ちろ!」僕は泣きながら何度も何度も叫んだ。
 いつの間にか酔いつぶれてしまった僕は、この時、何か大事な夢を見たような気がしたけれどよく憶えていない。

 そして、次の朝。

 世の中は大騒ぎになっていた。

 不倫を謳歌している人々全員の頭の上に、20㎝くらいの真っ赤な矢印が浮かび、『この人、現在不倫中』という注釈がついていたのだ。

(続く)


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