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【短編小説】注釈男 世界は踊る 第2話


【第2話】


 今朝、二日酔いの吐き気をこらえながら家を出ると、隣の家の奥さんにばったり出会った。「おはようございます!いいお天気ですね。」とニッコリ微笑みかけられる。相変わらず愛想が良くて感じの良い人だ。
 でも、このとき僕が目を奪われたのは、奥さんの美しさでもスタイルの良さでもなかった。僕の見つめる先には、ひときわ目立つ、頭の上に浮かぶ真っ赤な矢印と『この人、現在不倫中』の注釈。旦那さんに悪戯されたのかなと思い、「何か頭に付いてますよ。」と言いながらそれを取ろうとしたけど、なぜか触ることができない。僕を自分の頭の上で手をぶんぶん振る変な男だと認識した奥さんは、「し、失礼します!」と足早に去っていった。

 あとで分かったことだが、どうやらこの注釈は本人には見えず、鏡にも映らないものらしい。また、映像で残そうとしてもそこに注釈は映り込むことはなかった。だから、旦那さんが出張で不在だったせいで、奥さんは自分に注釈が付いていることに全く気付いていなかったのだ。

 こうして、大混乱の朝が始まった。
 この日のことは、のちに「注釈の朝」と呼ばれることとなった。

 自分に付いた注釈を知らずに電車に乗った会社員の女性は、周りの人達からクスクス笑われている。少し離れたところでは、女子高生たちが彼女の頭の辺りを指さしてコソコソと話しをしている。どうして笑われなくてはならないのかと彼女は非常に気分を害したが、満員電車のあちこちに浮かぶ不倫中の注釈に気づくのはもう少し先だ。

 幸せ家族の典型とされていたある家庭では、起きてきた夫に注釈が付いているのを見つけた妻が大激怒して茶碗や皿を投げつけている。わけも分からずに一方的にやられていた夫も、妻の頭の上に浮かぶ注釈に気付くとすぐに応戦し始める。大きなあくびをしながらおっとりとリビングに登場した大学生の娘は、両親の頭の上に浮かぶ注釈に気付き、自分の頭の上の空間をおずおずと不安げに確認し始めた。

 朝早くから出社して、当日の業務の下準備をしている会社一真面目な奴と言われている青年にも注釈が付いている。彼は、近いうちに会社をクビになり、二回りも上の不倫相手と同棲することになるとは夢にも思っていない。

 通学路の交差点で交通見守り活動をしてくれているいつも優しいおじさんは、子ども達から「ふりんしているの?」「ふりんってなに?」と次々に質問されて家に逃げ帰ることになった。御丁寧なことに、注釈はどの年代でも読めるよう変換されるらしい。

 結婚直後から20年以上の長きにわたり不倫を続けてきた主婦は、注釈騒動が始まったあと、不倫がバレたとしても、あのことだけは墓場まで持っていこうと固く心に誓った。

 誰よりも安堵したのは、注釈の朝の前日に相手と完全に縁を切った運のいい不倫者だろう。ほんのちょっとの時間差で地獄行きを免れたわけである。
 一方、「注釈の朝」以降慌てて不倫相手と別れた人も多かったが、注釈は消えることがなかった。自業自得としか言いようがない。

 こうして、注釈が付いた人々は外に出られない状況となった。こうなったらもう家に引きこもるしか方法はない。しかし、同居人がいる人はそうもいかない。当然、修羅場になるので家にいるわけにもいかなくなった。その結果、多くの人がホテルに避難したため、ほとんどのホテルが満室状態になった。

 次第に注釈が映像に映らないことが分かってきた後は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが終息したにも関わらず、リモートワークと称してホテルで仕事をする不倫者が増えた。

 この混乱に対して、マスコミはほぼ沈黙を守っている。報道しようとしても映像に映らないのだから報道しようがない。なにより多くの報道人の頭にも真っ赤な矢印がついている状態で何を偉そうに話せるというのか。ネットやゴシップ系の雑誌だけが、有名人の誰それに矢印が付いていたとか噂話を垂れ流し続けていた。

 政府も事態を静観している状況だ。注釈の存在自体を証明できていないことから、非公式見解として集団ヒステリーの一種なのではないかとのコメントが残されているだけだ。

 商魂逞しい有象無象の怪しげな企業群は、注釈の朝から数日後には「赤矢印を消すことができる」薬やネックレスなどを信じられないような高額で売り出し始めた。当然、そんなものは全く効果がないわけだけど、飛ぶように売れているらしい。哀れとしか言いようがない。

 僕の会社でも「注釈の朝」に突然有給休暇を取る人が少なからずいた。その人たちはみんな不倫しているんじゃないかと陰で噂されている。可憐で優しくてみんなの妹的存在であった女子社員もそのうちの一人で、みんながっかりしたり悔しがったりしている。一方、注釈が付いていない社員はみんななぜか少しばかり誇らしげで、社内の雰囲気もなんとなく浮足立っている。 

 僕はと言えば、よく分からない違和感を感じつつも、なんだかとても面白いことになっているなぁと興奮していた。今すぐ妻に会いたいと思った。言葉にはしなかったけれど、不倫しているヤツらがもっと苦しめばいいのにと心の中で小躍りしていた。

 注釈は世界中どこの国でも始まったらしい。

 大統領選挙を控えて大観衆を前に演説中の某国大統領候補は、その最中に突然注釈が付いた。会場にいた支持者の悲鳴と罵声が飛び交い、そのニュースにより、候補者は国民から大バッシングを受け窮地に陥った。
 その後、映像には注釈が映り込まないことが分かった身に覚えのある各国の政治家達は、人前に出ることを避け、どうしても考えを述べなければならない場面になると映像でのみ姿を見せることとなった。

 また、宗教的に不倫に対して厳格な某国では、真っ赤な矢印が付いた人を見つけると問答無用で射殺するという事件が頻発している。不倫者は家に居ても家族から宗教的理由により命を奪われるくらいだから逃げ場所がない。中世の魔女狩りと同様の赤矢印狩りが始まっているようだ。


 「注釈の朝」から3週間が経った。依然として注釈は消えることはなかった。

 不倫したからといって殺される心配がそうそうない日本では、不倫者達もさすがに生活を維持していく必要に迫られ、開き直りながら人々の前に出始めていた。 

 そんな頃、僕は郊外の寂れた閉店間際のスーパーマーケットに買い物にいった。
 そこで、夜だというのにサングラスにマスク姿という怪しい姿でコソコソと買い物をする悠里に偶然遭遇した。

 悠里の頭の上には不倫中の注釈がしっかり付いていた。

(続く)


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