【短編】完全なる悪の存在
幼い頃、両親に見捨てられ、路頭に迷ったその男は、必死に愛する人からの支えを求め続けた。
しかし、信頼していた親友に全財産を騙し取られ、心から愛した恋人からも手ひどい裏切りを受けた。
深い悲しみの中、男は神に救いの手を求めたが、神は沈黙したままだった。
そして、男は絶望のあまり、完全なる悪の存在になることを心に決めた。
人から傷つけられるくらいなら、人を苦しめる側になってやろうと考えたのだ。
まず男は、自分の感情を排除しようとした。感情があっては悪に徹しきれないからだ。良心は最も排除すべきものだ。情けや憐みや同情の感情も不要だ。愛や幸せや嬉しさという感情も邪魔なだけだ。悲しみや憎しみや妬みや嫉妬という感情も身を亡ぼすもとになる。
それから10年が経ち、様々な感情は希薄になっていったが、時折忘れかけていた感情があふれ出した。周りの人々が離れていく寂しさもまだ深く感じていた。
20年が経ち、感情はほぼ無くなりかけていた。感情を挟まないことで男の行動は合理的で冷徹なものに変わっていった。しかし、時折孤独感を感じる自分自身に男は落胆した。
30年が経ち、男は心の奥底にこびり付いている感情の幽かな残滓まで全てこそぎ落とした。男は完全に孤立するようになっていたが、もはやそれに対して何も感じるものはなかった。
男は、何が起こっても、何をするにしても、一切の感情を挟むことなく、ただ淡々と為すべき行動を取るようになった。
気がつけば、男は55歳の初老に差しかかっていた。
次に男は、人が忌み嫌うことを徹底的に調べ上げた。どうすれば人が嘆き悲しみ、苦しみ、嫌な気持ちになり、心が折れるのかを探り尽くした。そしてそれを日々実践していった。
男は、人が幸せを感じることも徹底的に調べ上げた。どうすれば人が喜び、楽しみ、感動するのかを探り尽くした。そしてそれを邪魔することに全力を尽くした。
男は、なんの感情も挟むことなく、日々ただ淡々と人が嫌がる行為を積み重ねていった。盗み、騙し、嘘をつき、傷付け、脅かし、嫌がらせをし、ありとあらゆる犯罪に手を染めた。
そして10年が経ち、20年が経ち、30年が経ち、感情を無くしてから40年の歳月が過ぎた。
気がつけば、男は95歳の老人になっていた。
ある朝、男がいつもどおり隣の家の庭に大量の生ごみを投げ込んだとき、パッパラパパパ↗パー!とファンファーレが鳴り響いた。
そして全能の神が空に現れ、男に告げた。
「お前の悪の経験値はカウンターストップした。たった今、お前は完全なる悪の存在となった。善良で敬虔な人々にとって、これからお前が為す全ての行為は悪と認識されるだろう。」
男の全身から真っ黒な炎がメラメラと噴き出し、男をマントのように包み込んだ。身体の内側からどす黒い無限の力が湧いてくるようにも思えた。
完全なる悪の存在の誕生だった。
しかし、男にはそれを喜ぶ感情はとうの昔に消え去っていた。
男は、自分が完全なる悪の存在になったことをただ淡々と受け止め、そして、世の中を徹底的に悪で蹂躙する策略を冷静に考え始めた。
感情は無くとも腹は減る。男は、世界で暴れる前に、まずは腹ごしらえをしようと考えた。男はすでに高齢になっていたので、ワインを小さなグラスで一杯と、チキンとサラダの朝食で十分だった。
すると、善良で敬虔なる市民にとって、腹を空かせること、ワインを飲むこと、アルコールを摂取すること、肉と野菜を食べること、朝食を取ることが罪となった。
満腹になった男は、ソファーで横になってうたた寝を始めた。
その瞬間、善良で敬虔なる市民にとって、満腹になること、横になること、睡眠を取ることは罪となった。
日中を寝て過ごした男は、日が暮れたころ目を覚ました。
部屋の照明のスイッチを入れ、冷蔵庫から水を取り出して喉の渇きを潤した。そして、人を呪う禍々しい歌を即興で歌いながら、自分の身体の調子を確かめるために軽い柔軟体操をした。
そのあと、また腹が空いた男は、昨日の晩御飯の残りを温めて皿に盛りつけ、パンとチーズを添えた質素な夕食を食べた。
そのときから、善良で敬虔なる市民にとって、明かりをつけること、電気を使うこと、冷蔵庫を使うこと、水を飲むこと、歌を作ること、歌を歌うこと、運動をすること、料理をすること、小麦粉と乳製品を食べること、夕食を取ること、その全てが罪となった。
夕食を食べ終わると、老人にとってはもう遅い時間になったので、暴れるのは明日にすることにして、食器を洗い、トイレで用を足し、入れ歯を外してシャワーを浴び、それからベッドに入った。
善良で敬虔な市民にとって、食器を洗うこと、用を足すこと、入れ歯を使うこと、シャワーを浴びること、ベッドを使うことは罪になった。
善良で敬虔なる市民は、決して罪を犯さないよう真面目に生きてきた。
しかし、今や生きていくために必要不可欠な行為が全て罪とされてしまったため、重大な選択を迫られることとなった。
善良で敬虔な市民たちは、罪を犯さざるを得ないことに大いに葛藤したが、結局、生きていくための選択をした。
こうして、この世の人々は、一人も残すことなく悪人に堕ちた。
そして次の朝を迎えれば、完全なる悪の存在となった男が、いよいよ世界を蹂躙し始めるはずだった。
翌朝、男はベッドの中で老衰のため亡くなっていた。悪の無限の力も寿命には勝てなかったのだ。
そして善良で敬虔な市民にとって、死ぬことは罪になった。
しかし、世の中には、善良で敬虔な市民は誰一人として存在しなかったので、誰もその影響を受ける者はいなかった。善良で敬虔なる市民は悪人に転じたあとも、結局それまでとなんら変わることのない生活を続けていた。
完全なる悪の存在となった男の死は、近所の人々から「偏屈ではた迷惑な爺さんが死んだ」としか認識されなかった。
70年という長い年月をかけて完全なる悪の存在となった男は、結局、世の中になんの影響も及ぼすことなくこの世を去った。
そして世界は、今日も何も変わらず回り続ける。
(完)
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