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「下人の行方は、誰も知らない」のはなぜ?――芥川は下人を突き放した


「下人の行方は、誰も知らない。」

 芥川初期の短編であり、現代文の教科書にも掲載されている『羅生門』の有名すぎると言っても良いラストシーンだ。

 でもどうして下人の行方を、誰も知らないんだろう? 僕なりに考えてみた。


ラストシーンは二度書き換えられていた

 この印象的なラストを語る上で、欠かせない事実がある。

 『羅生門』の有名な最後の一文は、2回書き換えられている。すなわち3つのバージョンが存在するのだ。まずこの3種類のラストについて発表順に紹介していく。ご存知である方は読み飛ばしてもらって構わない。

 『羅生門』は最初、東京帝大文科大学の雑誌『帝国文学』へ発表された。1915年(大正4年)11月のことで、初出時の最後の一文は以下の通りである。

下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあつた。

 下人の行方が明確に描写されていて、今のものとは全然違う終わり方をしているのだ。


 続いて1917年(大正6年)5月に短編集『羅生門』(阿蘭陀書房)に収録された際には、以下のように改められた。

下人は、既に、雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。


最後に1918年(大正7年)7月、短編集『鼻』(春陽堂)に収録された際に、現在最もよく知られている形へと、大きく変更された。

下人の行方は、誰も知らない。


 特に2回目の書き換えは、物語の読解にも影響を及ぼす重要な改変と言える。なぜこのような改変が行われたのだろうか。 


『羅生門』執筆の背景

幼馴染み〈吉田弥生〉との失恋

 芥川は1914年、菊池寛や久米正雄ら旧制一高の同級生たちとともに、東京帝大の同人誌である第三次新思潮を創刊した。

 ほぼ同時期に、芥川は幼馴染みである吉田弥生という女性に恋心を抱く。二人は親密な関係にあり、芥川は正式に結婚も申し込んだ。

 しかしその恋が報われることはなかった。芥川家の猛烈な反対にあってしまうのだ。吉田弥生が戸籍上の非嫡出子であること、由緒ある家系である芥川家に対して吉田家が士族ではないことなどが理由だった。

 また、吉田家と、芥川の実家である新原家の付き合いが深いことも原因のひとつだった。養家の芥川家は、実家の新原家との関係が悪化していたのだ。
 新原家と親しくしている吉田家の人間を迎えることは、芥川家にとって面白いことではなかったのである。

 かくして芥川龍之介と吉田弥生の縁談は破局した。


イゴイズムをはなれた愛

 芥川はこの事件の後、友人である恒藤恭への書簡の中に「唯かぎりなくさびしい」(大正4年2月28日)、「大へんさびしい」(同年3月9日)と、悲痛な心持を語っている。

 3月9日の書簡の中では、愛と人間のエゴイズムについて次のように記した。

イゴイズムを離れた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出来ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂寞を癒す事はできない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない

 自らの恋愛が、家柄や世間体ばかりを重視する周囲の人間によって引き裂かれる。そんな現実への絶望の吐露だ。

周囲は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのままに生きる事を強いられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は悪むべき嘲弄だ

 この絶望をきっかけに創作の道へと邁進することになった芥川の作品には、人間のエゴイズムというモチーフが何度も登場することになる。

 今回取り上げた『羅生門』も、その最たるものの一つだ。


羅生門に描かれた人間のエゴイズム

 『羅生門』では、生きる為に死人の髪を抜く老婆、蛇を干し魚だと偽って太刀帯の陣へ売りに行く女、そして老婆から着物を奪って闇に消えていく下人が描かれる。彼らは人間のエゴイズムの象徴的なモチーフだ。

 中でも主人公である下人は、老婆に出会った当初は義憤に燃え、あらゆる悪に対する憎悪をたぎらせていたにも関わらず、最後にはあっさりと身を翻して、自らのエゴイズムを露にした。
 そして当初は、「雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急い」だのである。ここには芥川の、人間に対する不信と絶望が如実に現れていると言って良いだろう。


 ところが芥川は発表から二年以上が経過した1918年(大正7年)に、「下人の行方は、誰も知らない」ことにしてしまうのだ。

 もちろんこの余韻を残した描写には、読者の想像力をかき立てるという効果もあるだろう。実際僕も表現として、余韻を残したこの終わり方の方が好みである。

 しかし。僕はこの改変が、単なる表現上の問題だけによるものであるとは、どうしても考えられないのだ。芥川の心情を鑑みると、この改変には全く異なった意味があるように思える。


芥川は、人間に絶望したくなかったのではないか

 芥川は、羅生門のラストシーンを改変するまでの間に、後の妻となる塚本文に恋文を送っている。芥川が時を経て失恋から立ち直り、人間や現実への認識が少しずつ変化していったとすればどうだろう。

 どんな人間にも、美しい面と、醜い面がある。もちろん先に述べたようなエゴイズムがある一方で、善くありたいと願う心も、やはり持ち合わせているものだ。
 利己的なエゴイズムと良心の板挟みの中で、悩み苦しみながら、それでも善くあろうとするのが、人間であり、人生である。

 そう考えると、「下人の行方は、誰も知らない」理由について、二つの可能性が浮かび上がってくる。


・下人に改心のチャンスを与えた

 一つは、下人が考え直して、盗人となることをやめたかもしれない、という道を示した可能性だ。

 ただこれは根拠としては弱い。あれだけ正義感に燃えていたにも関わらず、老婆の話を聞いてすぐエゴイズムに走ることを決めてしまうような下人だから、「雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急い」でいたにしても、やっぱりのちのち改心したかもしれない、という読みもできる。


・芥川が下人を突き放した

 初出時の「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあつた。」というラストは、下人がこれから先、エゴイスティックな手段によって生きていくことを示している。下人は盗人になる選択をすることで生き延びるのだ。

 そこから読み取れるのは、結局のところ、人間は醜いエゴイズムによってしか生きていくことができないのだという、芥川の現実に対する絶望だ。


 ところが「下人の行方は、誰も知らない」という一文は、エゴイスティックな生き方を決意した下人が、その後どうなったかを全く描かないラストである。下人は上手く生き延びたかもしれないし、野垂れ死んだかもしれない。
 いずれにしても、下人のエゴイスティックな行動に対する肯定的なニュアンスが、初出時と比べて小さくなっているのだ。

 人間や現実に対して新たな希望を見出した芥川は、下人のエゴイスティックな生き方を暗に突き放したのかもしれない。


 そうすると物語のテーマも自ずと変わってくる。

 「人間はエゴイスティックに生きていくしかない」ことを示そうとした初出羅生門では、強盗を働きに急ぐ下人を描くことが、ラストシーンとして効果的だった。

 ところが、現行版羅生門のテーマは、「人間のエゴイズムと良心の狭間での悩み」となる。下人が「どうにもならない事を、どうにかするためには」と考え込むことに意味があるのだ。

 このテーマに従うと、エゴイスティックな道を選択して迷うことの無くなった下人は、もはや『羅生門』で描くに足りぬ存在なのである。だから芥川は下人を突き放した、とも言えるはずだ。




おわりに

 『羅生門』は青空文庫でも読むことができる。以下にリンクを示すので、読み返したくなった方は是非。

・新字新仮名版


・旧字旧仮名版
 こちらの最後の一文は、阿蘭陀書房版に収録された際の、改変前のものとなっている。




※文中の芥川の書簡について、出典は〈『芥川龍之介全集』10 岩波書店 1978年〉に拠った


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