ぐすたふ

運命は卒然としてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。

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運命は卒然としてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。

最近の記事

「思考の洪水」がやってくる【雑記3】

 「思考の洪水」とは、僕の友人ののか先生の造語である。のか先生は大阪の大学で出会った人だが、とても良い文章を書き、しごできウーマンで、気が付けばなぜか北海道に引っ越していて、北の大地で冬は大雪、夏はぬるい冷房と戦いながら、今やばりばり働いている。「思い立ったが吉日」が座右の銘であれと願いたくなる、行動力に満ち溢れた、蒸気機関車のような人である。好き勝手書いたが、怒られないかなこれ。最近はあんまりnoteは更新してないようだが。↓  そんなのか先生から『思考の洪水』という小説

    • 「君の小説のテーマはネ、『ピュアイズム』だよ」【雑記2】

      「君の小説のテーマはネ、『ピュアイズム』だよ」  とは、僕のゼミの教授であるF先生の言だ。  大学の卒業を間近に控えた二月の肌寒い夜、四年間世話になり続けたF先生とサシで呑みに行ったのは、意外にもその日が初めてだった。そうして僕はこの先、もうF先生と呑みに行くことは無いだろうと思っている。何か諍いがあったとか、あるいはそこそこお年を召したF先生に縁起でもない将来を予想しているとか、そういう訳では別にない。ただF先生は「大学を出た学生に対して先生として関わる心算は無い」とい

      • もう大阪に帰りたいんやが【雑記1】

         僕は大阪に帰りたいのである。  家では大阪市営地下鉄(と、いつまでも呼んでしまう大阪メトロ)の到着メロディを延々聞き続けたり、月一以上の頻度で帰省したり、その際には頑なに「大阪に帰る」「東京に戻る」と言い続けたり(東京は僕にとって帰る場所ではないのである)して誤魔化し誤魔化し生きてきたのだが、限界が近付きつつあり。  ひどい時には大阪(というのはいわば広義大阪、大阪圏である。未回収のオオサカと呼ばれる僕の現在の地元尼崎はもちろん、ざっくり関西のことをこの記事では大阪と呼

        • 元最寄りのバス停が無くなるらしい【阪急バス加島線】

           10年ほど前まで十三に住んでいて、よく市バスや阪急バスで大阪駅に出かけていた。そのうち、阪急バスの方が廃止になるとのこと。  僕が利用していた頃は、二つのバスを合わせて15本/hくらいは運行されていた気がする。比喩ではなく、本当に待たずに乗れた。  そんなものが無くなるのだから、まさに盛者必衰という感じだ。 *  *  *  僕は2000年生まれで、10歳の頃までを大阪の十三で過ごした。  幼稚園を卒業するころには自転車に乗れていたはずだから、バスをよく利用してい

        「思考の洪水」がやってくる【雑記3】

          公園で隕石をひろった話

           誰も信じてくれないし、僕も信じてほしいとは思わない。けど本当の話だ。  小さい頃、僕は公園で隕石を拾った。 ○公園のテクタイト 幼い頃の僕は、公園で変わった石を探すことに夢中だった。何がそんなに面白かったのか、今となっては分からない。  最初集めていたのはすべすべした丸い石だ。ひんやりした手触りが心地良かった。そういう石は、どれも墓石みたいな上品な灰色をしているから不思議である。  ある日、少し様子の違う石を見つけた。ありふれた質感の白い石だが、形がおかしい。ほとん

          公園で隕石をひろった話

          線路上【小説】

          ※直接的ではありませんが、人によってはショッキングに感じられる描写があります※    線路上 春先の暖かい午後だった。僕は買い物に出るために、線路沿いの道を歩いていた。漆喰塗りの住宅が並ぶ、のどかな小道である。駅前の総合スーパーでペンやノートを買うつもりだった。どれも新学期が始まって、新しく必要になったものだ。  僕は小川に架かった小さな橋から、川沿いの鮮やかな緑を見下ろした。澄んだ水の下には、岩の間にたっぷり苔生した川底が見える。もう盛りは過ぎてしまったが、いくらか桜も

          線路上【小説】

          比喩とはモノではなくイメージを結び付けること

          『少女は太陽のように笑った』  文章を見て太陽を思い浮かべたあなた!  それ、ちょっと作者の思惑と違うかもしれません ○比喩表現とはイメージを結び付けること『少女は太陽のように笑った』  という文章を読み解いてみる。  つまり少女の笑顔は表面温度6000度なのだ。  ……そんなわけがない。  『太陽のように笑った』  と言われた時私たちが思い浮かべるのは、明るく、エネルギーに満ちて、温かみに溢れ、見ているこっちまで晴れ晴れとした気持ちになるような、そういう爽快な少

          比喩とはモノではなくイメージを結び付けること

          私小説はフィクションである

           「私小説って自伝みたいなやつだよね」  普段私小説を書いていてよく言われる言葉だ。  これはある意味正解かもしれないが、僕の考えとはちょっと違う。  僕は私小説も“フィクション”だと捉えて執筆している。 ○自伝と私小説のちがい 自伝と私小説の違い、それは作者と作品の関係性、距離感ではないだろうか。  自伝という作品は、作者に非常に近いところで存在している。作者の人生という現実と一つになって、初めて完成する作品が自伝だ。  対して私小説は、自伝と比べて、作品が作者と

          私小説はフィクションである

          芥川龍之介『鼻』――人に笑われることを恐れた内供

           『鼻』は芥川初期の短編だ。禅智内供という長い長い鼻を持て余した僧侶が、面白く描かれている。  この物語はよくコンプレックスや自尊心に結び付けて語られるが、もっと単純に読み解くこともできるのではないかと思う。禅智内供はただ「哂われたくなかった」のだ。  こうして読解していくと、『鼻』が結構アイロニカルな作品であることがわかってくる。 自尊心による苦しみ 『鼻』の冒頭、内供の心境について〈実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである〉とある。  禅智内供は、

          芥川龍之介『鼻』――人に笑われることを恐れた内供

          「下人の行方は、誰も知らない」のはなぜ?――芥川は下人を突き放した

          「下人の行方は、誰も知らない。」  芥川初期の短編であり、現代文の教科書にも掲載されている『羅生門』の有名すぎると言っても良いラストシーンだ。  でもどうして下人の行方を、誰も知らないんだろう? 僕なりに考えてみた。 ラストシーンは二度書き換えられていた この印象的なラストを語る上で、欠かせない事実がある。  『羅生門』の有名な最後の一文は、2回書き換えられている。すなわち3つのバージョンが存在するのだ。まずこの3種類のラストについて発表順に紹介していく。ご存知である

          「下人の行方は、誰も知らない」のはなぜ?――芥川は下人を突き放した

          必要なのは語彙を活かす力

           普段文芸に縁の無い友人に「たまには何か書いてみなよ」と言うと、決まって「語彙力ないし無理ムリ」と返される。  しかし果たして、小説を書く上で、語彙力は必要なのか。逆に語彙力さえあれば小説は書けるのか。 言葉のポテンシャルを最大限引き出す力 言葉には、広く浅い意味を持つものと、狭く深い意味を持つものがある。多くの場合、「難しい」「語彙力ある」と言われる言葉は後者だ。  結構な確率で、難しい言葉で書く=レベルの高いことだと思われている。  しかし実際は「深さ100の言葉

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