人生とは、蓋をひとつずつ閉じていく営みかもしれない【日記R6.7.21】

 昨日の夜に東京に着いて、ひとやすみ。今日は正式に東京の家を引き払って関西に戻るための契約や手続きや何やかやをこなした。

 不動産関係は、払わなくて良い金を払わされたとか、これはどっちの負担だとか何とか、きな臭い話ばかり聞こえてくるのでどうしたものかと思っていたのだが、幸い不動産屋も大家さんも丁寧に対応してくれたので助かった。

 天気も良く、歩いていると玉の汗をかいた。駅前の不動産屋に行って退去のことを話してから、大家さんのところへ向かった。あまり詳しく書くのは憚られるが、その大家さんは菓子などの食品を扱っている店を営んでいた。

 大家さんは今後の退去に関することを丁寧に説明してくれてから、「何か住みにくかったところとかありませんか?」と聞いてくれた。

 僕が住みやすかったと答えると、「いえいえ、ざっくばらんに」と笑うので、引っ越しは体調を崩してしまったせいで、本当に住みやすいところだったと伝えた。大家さんはお大事にと言って店の菓子をひと包みくれた。

 とっとと関西に帰りたかったが、東京を出るのが惜しい思いであるのも本当だった。眺めの良い、割に広くて良い部屋だし(ベランダから足立の花火大会も見えた。昨日は中止になってしまったようだが)、大家さんは親切でいつでも美味しいお菓子を買いに行けるし、通勤にも便利な場所だった。

 大家さんに礼を言って店を出る。家の契約に関するすべての話が終わった。

 東京の生活もこれで一段落ついたのだ。店の前の信号を待ちながらそう思った。住んでいたマンションをぼんやりと見上げていると、ふいに意識が、有り得たかもしれない可能性へと引っ張られていった。

 東京で生きる自分。花火の見える家、大家さんの店の菓子、飛鳥山を駆け上がる都電、都バス、ゴールデンバットが供えられた芥川龍之介の墓、神保町の書店街、新宿三丁目の喫茶店、回り続ける山手線。

 いま、一冊の本をぱたりと閉じたような気持ちがした。その本は書棚へと仕舞われ、僕はそれを後に歩き出す。本は長い長い眠りの中へと落ちていき、二度と開かれることはない。

 人生を、道の開拓のように喩える人がある。

 人が生まれ、一本の道を切り拓いていく。ぐわりと視界が広がる瞬間がある。その人は何本もの道を選ぶことができ、ある道を選んで進んでいくと、また視界が広がって、何十本もの道を選ぶことができる。そういう価値観だ。

 けれども僕は、人生の随所で、むしろその逆のことをやっているような気持ちになる。開かれた何十冊、何百冊の本をぱたりぱたりと閉じていく感覚。一本道の人生ができあがるまで、数えきれないほどの可能性に、順番に蓋をしていく。

 ベランダで花火を眺める僕に、都電に飛び乗る僕に、神保町に通う僕に、おやすみなさいと声をかけて、頭を撫でてやって、二度と開かれることのない蓋を閉じる。

 けれどもそれさえ、自分で閉じる蓋を選べるという、都合の良い思い込みなのかもしれない。本当は僕たちは、ただ一冊の本を読み、ただひとつの蓋をゆっくりと閉じながら、一本続く道をとぼとぼと歩んでいるだけなのかもしれない。

おわり

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