河童忌やバットの小箱は汗に濡れ【日記R6.7.24】
7月24日は芥川龍之介の命日だ。「河童忌」と呼ばれている。
僕は普段から芥川が好きだ好きだと言って憚らないのだが、いざ芥川の命日となると、一体何を語れば良いのかわからない。
死に至った経緯とか、なぜ河童忌と呼ばれているのかとか、そういう調べればすぐにコトバンクとかが説明している内容を書く気にはなれない。好きな作品やおすすめの作品を紹介すれば良いのだろうか。
せっかくなのでひとまず紹介しておくと、芥川作品をまったく読んだことがない人には『羅生門』とか『鼻』とかの初期の代表作からまずは読んでみることをすすめている。普段はファンタジーなんかを読んでいるという人には、あまり有名な作品ではないが『アグニの神』を。割と純文も好きだという人には『秋』なんかおすすめである。何十人という人に「芥川好きなんだ、何から読めば良いの?」と聞かれ続けた結果、ある程度の傾向が掴めてきた。
僕はというと、一番最初に読んだのが『河童』だった。それから同じ新潮の文庫本に入っている『或阿呆の一生』や『歯車』や『蜃気楼』を読んだ。
なので、あとから『羅生門』や『地獄変』や『杜子春』を読むことになり、元気な頃はこんな作品を書いていたのかと大変驚いた。多くの人が晩年の作品を読んでその作風の変わりように驚くのとは真逆である。あまりこういう変な思いはさせたくないので、上の通り初めて読む人には『羅生門』なんかをすすめている。
僕が新潮文庫の『河童・或阿呆の一生』を買って読んだのは中学に入ったばかりの頃。東方Projectの楽曲『芥川龍之介の河童』を聴いていてネタ元が気になったからだ。そのときはずいぶん難しいことが書いてあるなあくらいにしか思わなかった。
けれどもその中学で、だんだんクラスに馴染めなくなって、学校に通えなくなった。うまく人を受け流したり、打算や方便や作り笑顔を使いこなしたりできるほど器用な人間ではなかったことがおおよその原因である。
うーん、頑張って来たつもりなんだけどなあ。僕は元々は進んで学級委員なんかやるタイプの人間だった。みんな仲良くしてくれて、力を貸してくれたりするんで、それは僕の頑張りをみんな評価してくれてるんだと素朴に信じていた。
けれどもどう頑張っても足掻いても誰も僕に手を差し伸べてくれない時期が来て、みんな結構簡単に離れていっちゃうんだなあとか、別に僕が頑張っていることそのものには大した価値はなかったんだなあとか、色々考えながら眠っていた文庫本を手に取った。
それでやっと芥川龍之介の言いたかったことが、少しだけ分かった。イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない。と書き残した芥川の気持ちが、少しだけ。
文学でこんな風に自分の苦しみや悲しみや、そういうものでできている自分自身を表現しても良いのだと知った。だから今でも、私小説を書くのが好きだ。
あのとき芥川龍之介に出会っていなければ。別に死んでいたかもとか言うつもりはないが、もっと歪んで潰れて、醜いものを吸い込むだけ吸い込んで、救いのない人間になっていただろうと思う。それって小説を書いて死ぬより辛いことかもしれない。
だから、伝えるべきは、感謝なのかなあ。
せっかく缶ピースをお供え用に買っておいたのに、命日の墓参はかなわなかった。また八月に東京に出るので、そのときにお供えして来ようと思う。
タイトルは僕が高校生の夏につくった俳句である。
おわり
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