沖縄について
沖縄に8年住んでて、基地問題で内地に主張する人が多かった。
その一方で内地から、踊りの文化を入れて沖縄の文化にしたいと言っている人もいた。
全ては沖縄の為と言っていたが、言うだけで、住んでいる一個人の話には無関心な気がする。
知っている人の中に、「相談しようか?」と言ってくる人がいたが、頼ろうとしたら避けられた。又は人を心配して哀れむ人がいたが、その人にも頼ろうとして避けられる。
私に原因もあったのかもしれないが、人を同情する態度のみ取られていて、記憶を整理していくと怒りを覚えてしまう。無責任に人に同情するなと言いたい。それならば何も言わないほうが良い。それでいて、楽しい事には共感したがる。
その一方にあるのは、「悩むなら楽しいこと考えろ」と言って無関心な人々。楽しいことにしか関心がない。
「相談しようか?」と言って人に同情する人、「悩むなら楽しいこと考えろ」という人。どちらも根が同じと思う。
「楽しさ」、悦楽を求める意味においては共通している。
「沖縄の為に」とはいうが、個人の感情を封殺しているようなものだ。
この世界観にはじかれる人が絶望すると精神的に病む。又はカルトには言ったりしていく構図になる。
「逆の立場に立ってみろ」。沖縄にいるときにこの言い方がたくさん聞いた。私が見ると自分の立場を他人に言うためのようにも聞こえる。
他人の痛みを知るよりは、自分の主張だ。
そして、困っている人に惰性に「楽しいこと考えろ」と言って突き放す。又は他人にやさしそうに同情するが、頼ろうとして突き放される。人に無関心でも、知人の誰かが関心持てばその振りをする。
誰かが「沖縄の無関心、無気力に風穴を開ける」なんて言ってたが、踊りを輸入して、沖縄の文化にするための価値にしか関心がなかった。創価の人間のためか、価値の構築に躍起だった。
相談しやすいように見えて、自分たちのイデオロギーに入れるのに躍起だ
記憶をたどる限り、私の知っている沖縄はこのようなものだ。
例外に沖縄の野良猫にはいいやつがいたけどな。
基地問題のような問題より、他人に対しての無関心さを何とかしてほしい。
権威の人の鶴の一声で無関心さに手の平変えるのには辟易する。
今に見てろ!