共感性の名において
モットー
昔いた、沖縄のよここい踊り団体のモットー「踊る人も見る人も楽しく」という物。
しかし、共感性という意味では母性的観念が強すぎた。
踊る事に対して、メンバーの女性たちの同調性が強すぎて。
この踊り団体のリーダーは男性だった。そして、メンバーは女性が多かった。よさこい踊り自体が、女性向けに作られていたこともあり、それにひかれる女性が多かった。
図式
当時を振り返ると、共感性が自己陶酔となり、同調性となる図式が、女性たちに合ったのでないかと思う。
踊り団体(メンバー(幾人かの女性(共感性(自己陶酔)→同調性→ヒステリー)ーリーダー))
図式になるとこうなるのでないかと思う。
女性(共感性)となるのは女性の踊りに対する共感性を意味している。
この女性の共感性に対峙するのは団体のリーダーになる。元々、「沖縄の為に」というコンセプトで作られているので、リーダーの観念性が女性の共感性と呼応しあう。それが両者の間で同調性を産む。
しかし、両者の共感性はあっても、女性の側は踊りを教える側にもなっていて、踊りに対する理想が強すぎて、ヒステリーになっていく。
それは踊りをする側が、理想についていってないからだ。
私個人の経験からすると、よさこい踊りの楽しさなどわかっていなかった。今も。なぜ笑顔にしないとならないかもわからないし、何が楽しいのかもわからない。それ以上に踊りのズレを直すことばかり言われてた。
そして理想に値しないことがヒステリックになり、硬直化していく。そして、不寛容になる。
乏しくなるが、踊りの動作の意味をリーダーに聞いても、何も言わなかったように思うし、踊りの動作についてメールで女性のメンバーに聞いても返信なかった。具体的なイメージ言っても。それどころか知人から、笑っていたと聞いた。
その話とは正反対に聞こえてくるのは、よさこい踊りの、のれん元の団体のすばらしさや誇り、価値の高さ、プライドなどのうんちくだった。女性たちも踊りのすばらしさを、言語化できてなかった。
考察
私は、この団体の雰囲気に対して何かきれいすぎると思った。この組織の中にいて、全体像は見えにくく、踊りに対する共感性からズレて時の生きづらさや抑圧を強く感じた。彼女らの大半にとってはそれが正しいように思った。
そして、彼女たちの不満はリーダーに行く。
リーダーは意見するが、どこかで答えることに止まる。何かのビジョンが欲しかったようだ。女性たち以外のメンバーにも何か意見を言われていたのもあった。人間関係によく恵まれててうらやましく思えたが。
彼女たち自体が踊りという物により男たちにマウントをとっていた。
同時に踊りという土台にひびが入ると、不安になりやすいらしく、不満を言っていたリーダーに依存しだしていた。彼女たちは自己陶酔して同調して、理想に思い通りにならない時にヒステリックになり、自分たちで独自のビジョンを持てなかったのだろうと思う。
そのためか、当時から自分は女性のリーダー像に対して疑問がある。
踊りに対して自己陶酔する存在にはうんざりしたのもある。ただ純粋でやさしいだけの女性にあこがれるのではだめとも思った。
自分の魅かれる女性はどこか面白みがあって、どこか豪快さがないと、ひかれないのでないかとも思えた。最近。
共感性の名において
共感性の名において汝は傲慢である。共感性は同調性にもなり、理想に対して思い通りにならないとヒステリックになり、やがて不寛容と化す。悦楽の身を追いかけて共感を求めるもの汝は・・・である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?