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踊りと自己満足

よさこいカルト(?)|dragoniata|note からの考察。主に沖縄ほにや時代の。

上記の物から、「自己満足だ」という言葉を選ぶ。
「自己満足するな」とは言うが、何のためだろうかと思った。

沖縄のある踊り団体いた時の振り返り。高知のよさこい踊り団体からのれん分けされた組織。そのよさこい踊りの格式に見合うかどうかの物と思われる。
必要ではあるだろう。

もし「自己満足するな」というならばそれを言う彼らもこのことに対して厳しくないとならない。

しかし彼らは、自分に厳しいようには思えなかった。
かつてメーリングリストで、新年ごろに去年の実績を振り返り、「大勝利だ」と言って自己満足していた。

人には自己満足するなとは言うが彼は自画自賛だった。
彼自身は自己満足することには無自覚だったようだ。

他にも、踊りに陶酔する人々もいた。自己陶酔するのはその対象に満足する事にもなる。自己陶酔=自己満足と考える。

踊り団体内での自己満足、自己陶酔=自己満足。個の価値観は何だろうか?簡単だ。よさこい踊りを踊り、一切のずれもなくできることが価値の基準だ。そして楽しむ、笑顔をする。

よさこい踊りは笑顔で踊り楽しむと言う決まりがある。
楽しまなければいけないと言う強迫観念性もあるかもしれない。
つまり、よさこい踊りをすることで、自己満足していると言う事だ。
この価値観に該当しない人は、不寛容にされ、自己満足扱いされて、踊りを楽しむ人々は自己満足であっても、それは許されていると言う事だろう。

よさこい踊りという価値観に共感し同調する事により、そうか、そうでないか決まる。もしそこに「コバンザメ」というような言葉を出せば、彼らは封殺しに連絡してきた。この団体は高知ほにやのコバンザメだったから。

これが彼らの価値観だった。あの当時を思うと、2枚舌の論理というのかもしれない。建前の「個性の尊重」という甘い言葉に騙された結果ともいえる。

踊り団体時代にいた当時の図(自分から見た)


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