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よさこい踊り 自己陶酔による同調

自己陶酔による同調。

それを全体の悦楽というならば、それは最大公約数の悦楽となる。
そこでは個人の悦楽は否定される。

「沖縄の無関心さに穴をあける」
あるイベントを主催する時(3回目)の踊り団体のリーダーの言葉。

沖縄の無関心さに穴をあけるために、彼は高知のよさこい踊りを持ってきた。そして穴をあけるために、踊りのすばらしさによる自己陶酔性を用いて踊りを広めた。

しかし、よさこい踊りの共感性による同調性を主張するあまり、その価値に自己陶酔する人が多かった。それが全体化した。
その普遍的に見えるものを自己の特殊性として扱ったものと思う。
そこでは個人の主張が、踊りに対しての共感性からズレると、無関心にされ、封殺される。

よさこい踊りで「沖縄の無関心さに穴をあける」はずの行為が、よさこい踊りへの同調性の為に「よさこい踊り以外無関心な人間」を作り出してしまったことになる。

故に穴はあけられたように見えて、あけられていない。
穴は「よさこい踊り」に対する共感性による同調性により補修されているだけである。

リーダーは沖縄の同調的な現象に対しての理解は乏しかった。
先祖崇拝する位牌によっての部族間の絆、時間よりも空間に対する占有性、年長者の権威等の視野がなかった。

つくづく思うが、よさこい踊りに対する共感のみが強くて、つらかった。
あの自己陶酔性による視野の狭さ、共感性からズレた時の封殺性、それに対して疑問にも思わない雰囲気。個人の話を否定される代わり、踊りを楽しむことのみが求められてて、個人の楽しみに対してのささやかな共感のなさには苦しみのみしかなかった。それを思うのは自分だけなのかもしれない。

仕事でないものを仕事の様に扱われてた。もちろん報酬なんてものはない。

駄文

踊り団体、沖縄ほにやの連中は、完璧そうにしていた。装っていた。
衰退性に対して希薄なのがいた。常に発展することに対しての幻想を持ち、楽しみつつも不安がっていた。

リーダーは発展することに幻想持っていた。黄金時代が続くものとしてた。栄光性しか求めてなかった。





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