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3章 年輪

3章 年輪
a)年輪とは
 対称性の軸によって円環は循環し、動いてゆくが同時に非対称にも動いてゆく。円環は対称的でもあり、非対称的にありバイロジカルな復論理の形で動いている。年輪はバイロジカルに動く円環の内部で形成されてゆく。
年輪は、樹木を横に沿って斧やチェーンソー等で、切った時に見られるいくつもの同心円状の模様であり、樹木が成長し年を取るに従い形成されてゆくもので、経験を示している。(例解国語辞典[第3版]、遍歴代表;林四郎<三省堂>より)。主に樹木の年輪は、木の成長を表わしており、樹木の肥大する成長は、細胞分裂によって、中心部を包む円が1年の周期によって一つずつ創られてゆき温度、水分、栄養の状況と環境の気候、季節に影響されることで創られる。(文部科学省、1993)
なぜ年輪かというと、樹木の年輪同様に人間も関わる世界の中で経験してゆく中で年輪を形成してゆく確信にあり、もし人間の持っている円環が一つの執着によって循環してゆけば、同じ事を繰り返してゆくに過ぎず、世界に対する誤った事実によって自然的認識の中で生きることに他ならない。円は循環してゆくが一つの繰り返される現象であり、季節の繰り返しの中で執着が生じるそれを取り除いてゆくには、執着することに対し直観し、「生きる」中での「変化」によって一つの執着から脱して行くことで、年輪を形成してゆく。バイロジックによって円環は対称、非対称に動いてゆくが、年輪は疑い得ない確信であり、日常の経験を還元してゆくことで年輪が確信されたものとしてあらわれてゆく。
 円環の年輪は円が円を重ねてゆき、包み込んでゆくことで成立してゆく。対称的な円は自己を形成する物で、時間的な継起である時制に関係がない。例えば、歴史は「過去―現在―未来」の交互に限定する中で、現在である今は過去と未来をつなげている。過去は現在を決定しているが、未来を決めてゆくのは、現在にある。過去の必然性によって未来は決定してゆくが、その過程によって執着を還元し、確信を見出すことで成り立つ。(田辺、1940)
年輪の形成は連続的で、非連続的なものである。反対に同心円構造は、動的で非対称に動いてゆくので発展的である。対称的な円が自己を形成するならば、同心円は、二項論理を統一した物で混ざり合うことで表現してゆく。その過程により論理的なものが示されてゆき、静と動の相互的な変化してゆく繰返しによって歴史は創られてゆく。その中においては相互的であり自己が自己を決定してゆくことにより自己は自己を限定してゆくことで、行為が生成となる家庭の中で年輪が創られてゆく。円環において、いかにして年輪が形成されてゆくのかその過程を見ていくことにする。

b)対称性の論理
 対称性の論理は論理であって、論理でないようなものである。これまで原理を述べてきたが、この原理は、一般、対称の原理を通して生じる。対称の原理によって、異なる物同士を同一化してゆく。同一化してゆくのは、同心円構造の円環であり、特徴は大きな円が小さな円を包んでいることで成り立ち、大きな円は小さな円に対して対立しており、具体的に言えば中心と周縁とが対立し、対立、極、相関、相似、相違といった関係にある。
二項的な対立によって、対立しあう同心円構造は、対称化されることによって同一化されてゆく。しかし、原理が適用されることによって、同一化によっていかなる思考も停止されていく。しかし、同一化しても異なってゆくのは境界である境目は同じではなく二項論理に従ったまま定義されており、純粋な形で定められることはなく、混ざり合う混合物である。二項論理の共有によって一致したとも言えるが情動的なもので、形である。分裂症にも見られてゆくものだが異なるもの同士がつながっているので対立、極、相関、相似、相違といった関係のつながりが極端になる。未分化されて同一化した状態に対し、一服もる行為により同じはずのものが対称的な関係において関わり、混ざる相互的なものとなる。情動は同一化されて混ざるが、情動が別の情動に変化することで、思考が飛躍されてゆく。又は喜怒哀楽が矛盾し、喜びに対して悲しみ、怒りを起こしたり、悲しみに対して、喜びを起こしたりして、互い異なる概念同士が影響されあってゆく為に、他人の影響を受けている。主観・客観、客観・主観が同一化することで自己を限定し形を創り、形成してゆくことで部分と全体、全体と部分が同一化し、一致してゆく混合物を見出してゆく。自己自身を限定するというならば、世界は事実と本質、本質と事実によって限定し、対称的になる事で混ざり合ってゆく。
 情動は混ざり合った形であり、対称性の論理である。環境が環と環との境目によって混ざり合う形となるならばバイロジックは、環境の矛盾に応じて対称的にも非対称的にも変化してゆくことになってゆく。円環が循環し、収縮と膨張を繰り返してゆくのは、環境に影響されて動いているに他ならない。(図6参照)

対称性の論理1

c)円と年輪
年輪は円環の中で創られてゆく。バイロジカルに円は動くため、対称的でもあり、非対称である。二つの原理が相互的で協同的にあるので、個性が形づくられて行く。
年輪が創られてゆくのは、習慣である。習慣とは、経験の中で起こる物で、対称性の論理によって混ざってゆく形である。経験の中で習慣が生成されることで行為がある。歴史とは創る物で、習慣に基づく為に行為によって生成されてゆく。形を形成するのは、形なき形である「形無き一」であり、二項論理が混合しあうことで形になる。習慣が形になるのは行為を創る物である。生命に基づき、規範で、制度的なものであるが、バイロジックを動かすのは生命を有する習慣にあり、収縮と膨張を繰り返す中で行為が示される。
樹木の年輪は、一年の季節を通して春材、夏材の年輪を創る事で年輪の幅を創ってゆく。幅は、周期の期間に基づくことで内在化される。春材は春から初夏に、夏材は、初夏から秋までの期間にかけて成立する。これを人間に置き換えれば、関わる期間によって年輪が創られることになる。厳密に言えば、細胞が分裂することで細胞壁が作られてゆくので、分裂されてゆく細胞が一般化されてゆく無数の事実とすれば、自然認識してゆく事実経験を還元することによる。年輪は習慣に基づいて経験していくが、主体と環境との関係の中で形と成る物で「作られた自然」、「作る自然」である。(三木、2001)
経験を事実とすれば、主体と関わる環境は自然的認識であり、自然、社会の中で事実を経験してゆく。習慣は経験する試みと過ちを通して、習慣が形づけられてゆく。習慣は事実に対して、対称、非対称に動いてゆくが、行為は非対称に動いてゆく。諸部分を特徴付けるのは、「眺める」、「見る」、「どこかに行く」行為にあり、同一のように扱うことが分割してゆくことにあり、習慣が行為によって変化してゆくことで事実を経験する。

d)自然的な認識
自然的な認識は、自然に経験することで、同時に留まる事を言うが、「自然」の本来の意味は、人が手をつけていない状態をいう。生まれて来た物が、自然に知るのは、周囲にいる人々の行為によって限定された中での影響が子供の主観性にとって「自然的」と写る。認識の一般化により、個体であるクラスは、それを自身の世界では、要素を含む集合であるクラスを扱うことで仲間のように扱ってゆく。
「自然的な認識」は、経験する事と同じ意味で、二重の意味を含み、客観、主観を示している。経験とは、実際に出会うもの、客観的に与えられたことである。錯覚、幻覚も経験してゆく事で、客観的な事実となり経験は客観的な事実に基づいている。同時に主体である主観と関連付ける物であり、経験する主体がある。まとめれば、経験は主観的で客観的なもの、客観的で主観的なものであり、相互的なものとして捉えてゆく。(三木、2001)
このようにして、一般化し、経験する多くの要素は、対称的に結び付けることで、同一化される。円環が同心円構造によって経験するならば、純粋な経験を通して未分化される状況になり同時に対称的にもなることで、形は変化してゆくが、経験の還元を通して主観化、客観化された意識になるが憶測、偏見にもなり、非対称に特徴付けられてゆけば優劣的なものとなる。純粋な経験を通すことで事実は還元されてゆくが、主観は客観、客観は主観になることによって、相互的に同一化するが、関わる境界は混ざり合っている。対称性の論理は、二項の関わりあう境界で起こる情動的なものである。
主観的な経験によって経験は起こるものではない。主観と主観の関係であり経験を通すことで主観と客観のつながりが生じてゆく。環境とは、環と環の関わる境目で起こる関係であり、同時に環境は関係によって影響されることで、作られてゆく。主体と環境とのつながりは、関わる境目によって作られた環境との関わりであり、経験すると同時に認識を留めてゆく。対称性の論理は関わりあう境目、または異なるもの同士が同一化された事により境目に生じ、混ざり合う形である。形は関係によって作られてゆくのならば、関係の中によって身ごもられている物で子供が母親の胎内に妊娠している中で作られてゆき、産まれれば、自然的な認識を文化として形の中に内蔵されている。(市川、1993)  
内蔵される文化は習慣である。習慣は作られたものであり、作るものであるが、作られた自然的な認識によって経験が重ねられてゆく。バイロジックは、習慣によって動く形である。自然的な認識に基づいて動いてゆくのは、作られた習慣によるもので、生きづいてゆくものである。経験してゆくと同時に憶測、偏見が生じ、留まってゆく。この自然認識によって、文化は作られてゆく。主体と環境が互いに限定しあうのは関係に基づく為に、主体と主体が互いに関わる境界のなかで環境にある。主体と主体の関わる影響しあう境目の中に環境が作られて行く。同時に含まれている憶測、偏見は環境の中に作られてゆくだろう。主体は環境を限定し、環境は主体を限定するのは、経験する自然認識に影響されて動いてゆくもので、同時に経験した自然認識に対して批判してゆく。
環境より生じた自然認識が「一」ならば、一によって主体は「多」であり限定されることで抑圧される。逆ならば、「多」である主体は「一」に対し批判する。バイロジックは、対称に動くし、非対称にも動いてゆく。対称性の論理が形の論理であり、「関係」の論理ならば、関わりあう境目において、対称的な関係が成り立たなく成ったと見なければならない。主体が環境を限定することのみならば、憶測、偏見であるドクサに染まっている状態にある。この現象を「無痛文明」ともよばれている。
無痛文明とは、「痛みのない文明」を意味している。それは主体が環境を限定し、環境が主体を限定する相互的な関係ではなく、主体が環境を限定してゆくのみにあり、非対称に抑圧してゆく。一方的に集中し、蓄積され、媒介された力によって作られる文明であり、快楽を求める事で苦しみを遠ざけ、「欲望」のまま動いてゆく事で富を消費し、食料、物を流通してゆく事で満たされてゆく。この人工的に作られた環境の中で、習慣が生じて経験が重ねられてゆき欲望は非対称に満たされてゆく。欲望は身体的なもので、「快適さ」を維持したままに快を求めて苦しみを避ける。そして物をどんどん取り入れてゆく。
他者とぶつかっても、変化することなく拡張してゆく事で促されてゆく。(森岡、2003)
人間と野生動物の関係においても同様であり、圧倒的な優位に立つ人間は、動物を家畜のように扱い、動物たちを無造作に殺して、肉や皮を取り、亡骸に敬意を払う事がなくなってゆく。人と山羊の同一のつながりもなくなって行く為に生産する物となってゆく。トンプソン・インディアンの神話で人と山羊の
夫婦になる話を例にしても人と山羊の同一なつながりでは、狩猟で山羊をしとめても死体を丁寧に扱い、敬意を持って扱うことを山羊は人間に求めていた。
抑圧によってバイロジックの非対称な特徴が示され、対称性に基づく事に対し省みられることが乏しくなり、対称性の軸は時間的な継起によって抑圧され、環境の中において形が固定されてゆき、一方的な優劣によって非対称に拡大してゆく。拡大されることによって「本物の苦しみやつらさ」を「選択としての苦しみやつらさ」へと内在化され、事実として認識されてゆく。内部化されてゆくのは常識であり、抑圧されてゆくことで本物の痛みを無痛化されてゆく。無痛化される事により人間と動物である山羊は同一な関係ではなくなり、互いに親密感、敬意を払うことが乏しくなってゆく。習慣は生命を有するならば,無痛化されるのは習慣であり,変化してゆく習慣の形に対して固定化してゆく事で抑圧した形が創られてゆく。
対称性の論理は同一化されたもの同士の境目において、主観と客観が混ざり合う形である。形は関係によって変化してゆくが形は関わる両者の解釈であるならば、両方のためにあるのだが、一方的な優劣は無痛な認識論者達が対称的なものを分けるのではなく、ちぎりとって行くことで優劣を創ることで、形を固定していったことにある。

e)年輪の形成
経験してゆくと供に、憶測、偏見が生じて留まる。「自然的」とされている認識により反応する事で、バイロジックは反応する事で、対称、非対称に特徴が具体化されてゆく。非対称な特徴が個性になるならば、対称性は異なる物同士が互いに対応しあう事を示し互いに対称、非対称になる事で変化しあってゆく。「自然認識」において無痛文明について述べていったのは一方的な憶測、偏見により染まった状態を言い、「快適さ」によって苦痛を避けてゆき、そして物をどんどん取り入れてゆく。他者とぶつかっても、変化することなく拡張してゆく事で促されてゆく事実に対して、非対称が過剰に動き、反応してゆく事にあり円環は憶測、偏見に染まったままの状態で非対称に動いてゆく。
円環の中で年輪を形成してゆくのは、対称性に基づく上で対称性を保つ事にあり、自然認識的な経験に含まれる憶測、偏見による態度を「還元」してゆく必要がある。「還元」とは現象学の方法概念であり、事実から本質を見出す方法で物事をもとの形・性質・状態などに戻すことにある。自然認識とされる事実に対し、自然的な世界の見方を停止(エポケー)させることで括弧に入れてゆく。それによって、浮かび出てくる形が見出されてゆく。形とは対称の論理によって異なるもの同士のつながりによって同一化され、つながりの中において混ざり合う境界にあり、円を包む年輪が生じる。形は、二項論理が互いに関わりあう境目によって成り立ち、「形なき一」はその境目の中によって形となる。年輪を形成してゆくのは、対称性の論理に基づく混合的な形の中で形成される。
神話的な思考、及び関わりの中での思考等は、主観と客観を越えたものであり、形によって形像となる。未開とされる人々の思考は、時間的な継起はなく、円環の循環に沿って時間が循環してゆくと考えられるために「過去―現在―未来」を区別する事はなく、始まりも終わりもない。始まった所から終わり、終わった所から始まってゆき、再び同じところに戻ってゆく。年輪は「現在」である今を中心として、「過去」と「未来」の間に立っている。円環は対称、非対称にも動いてゆく為に収縮と膨張しながら循環し動いている。

対称性の論理12cdr

 年輪は、円環の中で形成される。年輪が形成されてゆくのは、互いに関わりあう環と環の間にある環境である。非対称に離れて環境に限定された主体が環境の事実に含まれている憶測、事実から還元してゆくことで確信を見出してゆく。年輪は対称化された二項論理によって創られた円であり、円に対し円を重ねてゆく。年輪は習慣によって、行為することによって変化してゆく。神話的な思考が伝統的なものであるならば、年輪の円によって動いてゆくだろう。(図7参照)
 伝統とは、主観的で客観的なものであり、伝える行為によって過去のものが、主観的に把握されてゆく必要がある。過去のものが現在化することであり、この行為は現在によって表現され、現在の行為は未来を含むことによって過去の伝統は現在と未来によって結合してゆく。(三木、1942)
主体と環境が互いに限定しあうのは過去が未来、未来が過去を限定した中で現在が動いている。習慣の行為によって年輪が作られたのならば歴史であり、歴史は二重の創造にある。主観と客観の混合的な形によって形像されることで、過去の主観性を客観性にすることで伝えられてゆく。この二重の創造によって作られたものは作るものとなり、歴史にある事実、記録、演説、談話集などを記した出来事を史料としてまとめられた物、文化を還元してゆく伝統が確信となり、円環の中に年輪が形成してゆく。年輪は伝統を示し、文化を内蔵してゆく。習慣による経験によって、事実を還元してゆくことで年輪が形成される。習慣は形であるが経験が沈殿してゆくことで還元されてゆき、変化してゆくことでバイロジックが収縮、膨張されたことで成り立ち、収縮と膨張の繰り返しの中で。沈殿された経験が還元され連続して、形が変化してゆくことで年輪が創り直されてゆく。伝統の事例を示すには、神話がある。
神話は、動植物、社会関係等の具体的な事物を用いることで語られるものであり、ひとつの目的に基づいている。それは、空間、時間の中に拡がって散逸し、おおもとのつながりを失っているように見えるものに対して失われたつながりを回復することにあり、互いの関わりのバランスが欠く時に対称的なつながりを求めようとする。現実では、両立が不可能になるものに対し、共生しようとする可能性を論理的に探ろうとする。(中沢、2002)
対称的な関わりを神話が見出そうとするのは、周囲の環境を知るためのものであり、環と環の境目についての領域を知り、適応してゆくことにある。神話は「人類最古の哲学」と呼ばれており、動植物、社会関係等の具体的な事物を用いることや関わることの中で哲学されていったものである。1章で述べたように、神話は「器用な仕事」によって周囲にある具体的なものを用いて組み立ててゆくことで制作する行為であり、知覚と概念の中間にあり、混ざり合う形である。還元することによって本質を直観し個体の領域、範疇が境界付けられてゆくことで、環境の全体性を理解し部分である主体と同一化することで一致して混ざってゆくこと。還元された本質が年輪の円を用いる事で還元した事実を扱ってゆく。(図8参照)

対称性の論理13

 この図において、「器用な仕事」は還元されて確信を「智恵」として用いるので,環境は自然的な認識から得た知識を還元し,智恵と変えてゆく。限定された境界は主体と環境との関わりの中にある。人と山羊の関係においていえば、関わりを通してゆくことで対称性の論理の形は、「夫婦」又は、「約束」の形によってつながってゆく。人間の「男―女」の関係によって語られる。年輪は、智恵が創られたものであり、神話が伝統的であるのは、事実の中から生じる現象を知っていることにある。神話的思考は年輪の円を用いることで、還元していった事実を用いることで「器用な仕事」を行ってゆく。これによって、形は形を呼び起こすならば「形なき一」の中にある一般化された要素の事実を用いてゆく。形成された年輪を用いることで循環させる。年輪の円の上で二項論理を循環させることで神話を形成し、又は自己を形成することにある。年輪円の循環によって二項論理は動いてゆくことで思考は組み立ててゆく。「約束」の形でつながっている人と山羊においても同じであり、「夫婦」の形によってつながり離れてゆく。離れてゆくことで、同一な対称性は不均質な非対称になる。この関係がバイロジックによって動いているのは、対称的と非対称的の相互性と協同性に基づくもので、離れたことにより、かかわった環境の事実を主観性に基づいて還元し、事実を用いて神話的な思考をしてゆく。このようにして伝統が形成されて語られてゆく。
 神話が伝統的なのは伝えるためにあり、過去と未来の中に現在があり、互いに限定されている。過去から伝えられるものを現在に行為を成すことで、活かされ、未来につながってゆく。時間的継起の中で伝統があり、確信的な円環の中に内在する年輪の円に沿って循環している。同時に形は変化してゆくことによって、年輪も収縮と膨張することで、還元されてゆく。習慣によって年輪が創られるのならば、習慣の行為によって経験し連続的に経験してゆく事実が還元されて確信を得ることで年輪を形成し、「器用な仕事」によって具体的な事実を用いることで神話的な思考がなされてゆく。伝統は、内在化したもので文化を内蔵しているに等しい。異なる道具、材料を用いて神話は思考されてゆき、同時にできたと思ったら還元されて、変化した形によって新しい世界が作られてゆく。形が諸関係の束ならば、形を結合している「形なき一」によって媒介されており円環的で、内在する年輪は諸関係同士の間において対応していることで循環している。対称化された軸によって円環が動き、諸関係性の軸は円に内在することで年輪によって重なっている。バイロジックが対称的で非対称なのは主体と環境とが互いに限定しあう同心円構造にあり、諸関係をつなげている円環であると同時に着かず離れずにあり、収縮と膨張を連続的に繰り返し非連続的に内部には内在する年輪を形成してゆく。


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