【小説】 猫と飴 第8話
第8話
何かが噛み合わない。最近はいつもそうだ。
彼女の僕を見つめる瞳は、最初は僕への愛情がある様に見えた。
ずっと同じ気持ちだと思っていた。
いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。僕の好きと、彼女の好きの種類は初めから違っていたのかもしれない。
最初から彼女の僕にまっすぐに向けられていた瞳は、単なる仕事への憧れとかそういった類のものだったのか。
彼女は僕の何が好きなのか。
疑い始めたらキリが無かった。永遠と答えの分からない問いを解かされるようで、気持ちが悪かった。
もうこの問いの答えを、ずっと考えていたくなかった。
……僕の中で、何かが一気に崩れ始めた。嫌なものを突き詰めてしまうなら、全てを壊したくなった。
「……気まぐれな君と一緒にいるのに、疲れたよ。別れたい。……他に好きな人が出来たんだ」
僕は、彼女を傷つけたくて、嘘をついた。彼女の悲しむ顔が見たいと、嫌だと泣く彼女を見たいと、心のどこかで思っていた。
多分それは、考えるのをやめたかった問いの答えを、きっとまだどこかで求めていたからだ。
彼女はしばらく沈黙して、答えた。
「……分かった」
彼女は僕を責めもせず、少し悲しそうに……笑っていた。そして続けて、
「じゃあ、何日か引っ越すための時間をちょうだい。荷物が多くてごめんね」と言って、近くにあったあの変な狐の置物を手に取った。
僕は、
「……うん」とだけ返事をして、彼女から目を逸らし、逃げる様に自分の部屋に入って行った。
……傷つけたくて、傷ついた。
しょうもない自分に、嫌気がさした。
僕は、いつも嫉妬していた。彼女を夢中にさせるものたちに。
僕の世界は、とても狭い。
数日後、彼女は出て行った。
まるで、あの沢山のゴミを出していた日が、この日を予兆していた様にすら思えた。
あの、僕を小馬鹿にしていた狐の置物も、今はもう無い。
彼女の持ち物が全てなくなったこの部屋は、彼女と一緒に居た日々の思い出が、家のそこら中に漂っていて、うっすらと彼女の気配がした。
物が無くなった今でも僕は、その気配に囚われてふとした瞬間に思い出の中に留まってしまう。
終わる時には、やけにあっけなくて本当に現実味がない。
——現実味が無いのは、優しい思い出の中に逃げ込んでいるせいなのか。よく分からない。
馬鹿げた感情の暴走は、来るはずのない連絡をずっと待つというくだらない日常を生み出した。
あんな事言いたかった訳じゃないのに。そう思ったけれど、彼女に傷を残したかったのは事実だ。
彼女に振り向いてもらいたくて、構って欲しくて、きっとやってしまった。自分はもうずっと大人になっていたつもりで、ずっと誰よりも子供だった。
誰かから連絡が来るたびに、ハッとしてしまう自分に腹が立つ。
全てを滅茶苦茶に壊してしまったのは自分なのに。
でも……壊してしまって後悔していない自分もどこかにいた。ホッとしていた。もう限界だったから。
壊れてしまって嘆くより、少しの希望を持って壊したいと、あの時は思ったんだ。
後悔はしていないのに、いろんなものが急にどうでも良くなってしまいそうなのは何でなんだろう。
それでもまだちゃんと立ち上がれるほどには、気力は残っていて、回らない頭で仕事をこなす。
思い出に囚われなくなる日は来るのだろうか。
今はまだ、全然想像がつかない。
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