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こどもとうみ「人生想定外の連続」

 こうして2010年8月にずっとやりたかったことを始める!と自分以外の人たちに明言。こうするともう後戻り出来ない。ここから準備を始めるのが私のスタイルらしい。(のちに気づいた)とは言え、この業界に入って25年を過ぎており、次の4月を目指すのはかなりギリギリだとは分かっていた。でもやるって言ったからにはやるのだ!

 8月に明言して母を見送って、父が一人になり、職場では主任という立場。ここの園での話はまたいつか。立ち上げから関わらせて頂き、8年。
私が去っても大丈夫!と思えるスタッフ陣がいたので、安心して退職することに。

 9月 ちょっと前に購入した我が家は、いつかの独立用にと、夫婦二人には大き過ぎる家。決めていた部屋を保育に使う為にまずは壁塗りから。暗い色の壁だったところを、明るい漆喰に夫婦で塗り直す。

 10月 この業界10月半ばに園児募集の告知が始まり、11月1日が園児の願書受付。それまでに各園では見学会などが行われている。よって、全くの出遅れである。園の名前決めて、告知の文章作って、どこかに張り紙しなくちゃ。☜張り紙:掲示板などを利用して告知をする紙のこと 笑
12年前はまだまだSNSを使い切れていなくて、絶賛!紙の時代。
 葉山の当時のスタバは森戸の元町にあり、そこやスーパーや小売店や知り合いの店などに張り紙をしてもらった。宣伝は以上。自分で店をやっていた友人がチラシを1000枚撒いて10人来ると思うなよと教えてくれた。そして、その中から入園を決めてくれる人が1人いるかいないかだからと。

 11月 日々の仕事に追われながら、色々考える。ま、1年目の4月が0人だったとしても仕方ないよね。と開き直ってどちらかというと日々の仕事の方に追われていた。そんな中、1件の問い合わせがあった!問い合わせのあった3歳児の家族と会う。何もない壁を塗り替えただけの和室でただただ私の理想の保育を語るのみ。これで入園するかどうかを考えて下さいなんて、今思えばひどい話である。しかも、1人だったら幼稚園と呼べるのか?4月に複数の入園児がいる確約は出来ない。どうする??後日、この問い合わせをして下さったお家から「入園児が1名でもやりますか?」と聞かれた。「はい!」と答えた。私はいいけれど、この子にとって果たして良いことなのか?何としてでも友だちとなる同年代の人を入れなければ!と焦る気持ちになった。

 12月 3歳児から募集をしていたところに「2歳児はダメですか?」と問い合わせ。2歳児でダメな理由はない!と思い、そのご家族とお会いすることに。これまた、私の理想の保育の語りを聞いてもらうのみ。でも、なんとお友だちを誘ってくれて入園を決めてくれた!先に問い合わせのあった3歳児さんのご家族にお伝えしたところ、こちらも喜んで下さり、4名の園児と何とか開園の目処がたち年末を迎える。
 と、思ったらその頃数年にかけてひどくなっていた貧血状態の原因が判明。放っておいた子宮筋腫がひどくなっていた。年末の休みになんとか病院に行き、増血剤を打ってもらいながら、この先は手術で子宮を全摘するか、閉経を待つかと言われる。元気だけが取り柄で生きてきたので、全くの想定外の出来事である。
 全く役に立たなかった私の子宮ちゃん。
 相変わらず切り替えの早い私は、即決で全摘!を選択。だって、開業してから入院なんてしてられない。全開の体調で開業したい。すぐに手続きをして最速の2月末に入院することになった。

 1月 園としては年度末への忙しさが加速していく時期、そこに主任としての仕事の引き継ぎ準備、未熟な開業準備、あっという間に終わってしまう。

 2月 園の大きな行事が終わったその日の夜に予定通り入院。翌日手術。生まれて初めての入院と手術は、この日を迎えるまで感傷に浸る暇もなく、入院手続きが済んで部屋に入りやっと「やだな〜お腹切るのか〜」と言った感じ。この子宮全摘手術についてはこれまた長くなりそうなので、ここまで。ちなみに腹を15cmほどパックリと開かれて取り出された筋腫付きの私の子宮ちゃんは2.5kg!赤ちゃん産んだようなもんじゃないかい!

 3月 9日に術後の経過がとても良いとのことで予定より早く退院。その後1週間の自宅静養期間を経て復帰予定だったが、11日に退院の挨拶をする為に保育園に立ち寄る。そうするとついでに仕事をしてしまう私。若いスタッフたちが「まだいる!!もう帰って下さいよ〜」「分かった!午睡明けを手伝ったらもう帰るね」と話して、15時46分 地震が発生した。。。。。東日本大震災だった。。。。。ここから日本中が想定外の日々を送ることに。

life is unpredictable

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