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#全文公開 プロローグ【横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか】

「いつまで選手たちに黙っている気ですか?」
「このままでは危ない。チームが潰れるぞ」

4月9日に刊行となった、日本で最初に本物のクラブチームとなる可能性があった「フリューゲルス」を迫った

田崎健太 著『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか

より、プロローグを全文公開する。

プロローグ

 その日のことはよく覚えている。
『週刊ポスト』編集部員だったぼくは、前夜遅かったこともあり、昼前に出社した。いつものように編集部の棚にあるスポーツ新聞を無造作にいくつか掴んだ。すると横浜フリューゲルスという文字が目に入った。フリューゲルスの出資企業、佐藤工業が経営不振を理由にクラブから手を引く、もう一つの出資企業、全日本空輸は単独でのチーム運営を困難だと判断し、横浜マリノスと合併するという。
 一九九八年一〇月二九日のことだ。
 九三年春に開幕したJリーグの爆発的ともいえる人気は数年で萎んでいた。前年の一一月、実質的な親会社だったテレビ静岡が撤退し、清水エスパルスが消滅危機に陥っていた。静岡は日本で最もサッカーが根付いている地域である。市民の署名、募金が集められ、地元企業がクラブを引き継ぐことになった。同様に親会社が撤退を検討しているクラブもあるという話も耳にしていた。フリューゲルスに関してはその手の噂がなかったので意外だった。
 この日の夕方、国際サッカー連盟(FIFA)公式代理人の田路雅朗と会うことになっていた。この年、フランスで行われたワールドカップの後、中田英寿がイタリアのペルージャ・カルチョへ移籍した。その手助けをする代理人が注目されていた。FIFAは、移籍の仲介を選手の親族、公式代理人に限っていた。田路の所持する公式代理人のライセンスを誌面で紹介しようと考えたのだ。
 田路とはブラジルで知り合った。
 前年の九七年六月から一年間、ぼくは所属する出版社、小学館の長期休暇制度を使い、ブラジルを拠点にバックパックを背負って南米大陸のすべての国を回った。出発前、カズこと三浦知良の実父、納谷宣雄から電話があった。サンパウロでは、自分の所有しているアパートに住めばいいと彼は言った。
 ノンフィクションの要諦の一つは被取材者との距離である。納谷は将来、取材対象になる可能性があった。そうした相手に借りを作るのは気が進まなかった。ただ、為替の関係もあり、ブラジルの物価はかなり割高になっていた。一年間無給となるぼくにはありがたい話でもあった。納谷によるとしばらく空部屋になっており、部屋を傷めないために誰かが住んでいたほうがいいという。サンパウロに着き、アパートに行ってみると本当に何もなく、窓を開けると床に大きな綿埃が転がった。ぼくはベッドとマットレスを購入し、電話線を引き、最低限の生活ができるよう整えた。納谷の事務所の人々も、現地の日系人から使っていない家具を集めてくれた。田路は納谷の元で働いており、彼のサンパウロ滞在中、何度か食事を共にしていた。
 この日、田路とフリューゲルスについて深く話し込んだ記憶はない。かつてフリューゲルスに所属していた前園真聖がブラジルのサントスFCに移籍していた。前園がブラジルでどこまでやれるだろうかという話のほうが主だった。
 その後、フリューゲルスとマリノスの合併を取材したが、釈然としない部分があった。テレビ、新聞、雑誌は、クラブが消滅すれば選手の働き場所がなくなる、可哀想だという論調だった。
 ぼくは南米大陸、中でもブラジル各地でサッカーを観戦し、選手、監督たちと知己を得ていた。そこで痛感したのは、彼らはサッカーという職能を売り物にした冷徹なプロフェッショナルだということだった。Jリーグは高年俸できちんと支払いがなされるという認識で、日本のクラブを紹介してくれないかと声を掛けてくる選手もいた。彼らは自分の価値を高く評価してくれる場所を貪欲に探していた。フリューゲルスが消滅したとしても、能力ある選手たちは、他のクラブと契約することができるはずだ。合併を機により良い条件を提示するクラブに移ることもできるかもしれない。
 フリューゲルスの最後の試合となった九九年一月一日天皇杯決勝にぼくは足を運ばなかった。週刊ポスト編集部に配属となってからはほぼ毎年、天皇杯決勝を取材していた。なぜこの年に限って、国立競技場に行かなかったのか覚えていない。消滅が決まったクラブの選手たちの奮闘を美談に仕立てようとする空気を感じ、一歩引いていたのかもしれない。
 この年の終わり、ぼくは小学館を退社し、ノンフィクション作家として歩み始めた、サッカーは取材対象の一分野となり、日本代表にも選ばれた廣山望を追いかけて、彼がプレーしたパラグアイ、ポルトガル、フランスを訪れた。日本代表監督経験者であるジーコにはブラジルの他、彼が指揮をとったトルコ、ロシアでも話を聞いた。納谷の兄、聖司のつてでスペイン南部のラコルーニャで日本人サッカー留学生と共に寮に泊まり込み、練習に参加したこともある。元ブラジル代表のソクラテスやドゥンガのような誰もが名を知る元選手から無名のアマチュア選手まで取材し、FCバルセロナの本拠地カンプノウから南米大陸の田舎町にある壁が崩れたスタジアムにも足を運んだ。
 ブラジルでは小さな街であっても最低二つはサッカークラブがある。出自、社会階級、職業などによって贔屓のクラブが自然と決まるのだ。フランスのモンペリエでは、アラブ人移民が運営するクラブに招かれた。老人たちがクラブハウスで水パイプを吸っており、ムスリムの国に来たかのような錯覚に陥った。サッカークラブは共同体の中心なのだと思った。ラコルーニャにはスペインリーグ一部で優勝経験があるデポルティボ・ラコルーニャを頂点として小さなクラブが無数にあった。地域の人々がそうしたクラブを支えていた。
 サッカーが根付いた国を旅していると、フリューゲルス消滅のときに感じた疑問が記憶の澱の中から浮かび上がってきた。クラブ消滅の被害者は誰だったのだろう、と。これはクラブとは誰のものなのか、という問いに繋がる。
 二〇一九年の終わり、いくつかの縁が重なり、フリューゲルス関係者への取材を始めることになった。そこでぼくは横浜フリューゲルスというクラブをまったく知らなかったことに気がついた。
 フリューゲルスは日本サッカー界に貢献した人材が多く在籍したクラブである。加茂周、反町康治、山口素弘、前園真聖、楢﨑正剛、遠藤保仁、あるいはブラジル人のジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイール、パラグアイ人のアマリージャ、アルゼンチン人のモネール──。
 横浜には日本リーグ時代の強豪チーム、日産自動車を母体とする横浜マリノスが存在する。マリノスと比較するとフリューゲルスは人気のないほう、横浜のもう一つのクラブという位置づけだった。しかし、歴史を紐解くと違った姿が現れる。フリューゲルスは日本で最も長い歴史を持つ横浜サッカーの正統な継承者であり、最初に本物のクラブチームとなる可能性を持っていたのだ。

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