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肩書きのないパーソナルトレーナー【自己紹介とやりたいことと】前編

はじめまして。神宅謙一郎と申します。カンヤケケンイチロウと読みます。おそらく初めて見た名前かと思います。シンタク、カンヤと言われることが殆どですがカンヤケと読みます。日本で50人しかいない珍名さんです。

むかし飛行機に乗った時の搭乗券に、ローマ字をそのまま訳されたんでしょうね、「カニャケ ケニチロ」と異国の方のように表記されたり、学生時代にお付き合いしていた方の御父上からは「パンヤキさんから電話やで!」とそこまでキラキラ苗字か?と思う感じに聞き間違えられたりしました。大概の方には二度聴きされる名前ですが、そのおかげで忘れないでいただけるようで。覚えていただけますと幸いです。

簡単なプロフィール

生まれは大阪。天神祭りが有名な天満の天神さんの氏子として生まれました。地元の小、中を卒業し、地元で一番有名な公立高校に入学。自分ではそこそこの「かしこ」だと思った自信の塊だったんですが、さすが地元の天才・秀才が集まる学校、「かしこ」度合いはレベチで、入学式後の実力テスト結果で瞬殺で底辺確定を思い知らされ、3年間はビリージョエルとハンドボールに費やし、赤点ギリでかろうじて卒業。一浪の末に地元で有名なお笑い系私立大学に入学し、バイトに明け暮れる日々から、ひょんなきっかけでリクルートフロムエー(今はリクルートに併合)にご縁をいただき入社しました。入社のいきさつはまたどこかで書きます。結構面白くアツい話です。

フロムエーでは営業に配属され、大阪の南エリアを担当。営業業績は今も元上司に「ありえへんかったなー」と語り草にされる未達野郎で、達成率は90~95%(過去実績+α)をウロウロするのですが100%はなぜか滅多に超えない。なんでやろ?と直属チーフが頭を悩ます問題児でした(ゴメンナサイ・・・)

数字を創る営業仕事はダメでしたが、広告効果にはこだわりがあり、原稿制作担当の皆さん、営業連携していたB-ing(中途採用)を担当するリクルートの先輩に「真の顧客課題を聞く方法」「その企業唯一の魅力の探し方」を教わり、ZD(ゼロディフェクト、応募ゼロの事)はほとんど出したことがないのが自慢でした。このころ鍛えた基礎スキルが今の自分の体幹になっていると思います。

当時の所長が営業には向いてないと見るに見かねて、若手を求めていた「関西営業企画課」に推薦してくれて異動。以降18年プランナー業務に没頭しました。
社内報を担当し、関西のほぼ全営業を取材し、「売れている」ことと「効果を出す」ことの相関を探ったり、彼らの印象に残る仕事はなぜ成功したのか「成功のメカニズム」を解析したり、体系化して図示したり。

本社の採用ナレッジを科学する部署の人に知見を伝授いただいたり、博報堂のセミナーやマーケティング、企画プランニングの研修にも参加させていただいたり、これが私の今の考え方のベースを作っているといっても過言ではなく、異動させてくれた営業部の上司、教えていただいた企画の上司には一生感謝しても足りないです。

関西営業企画課で3年経験をつみ、事業を立ち上げたばかりの東海へ異動して6年、大阪しか生活経験がなかった自分にとって東海圏独特の慣習や顧客感覚は新鮮で、これが自分の仕事観の柱になっているといっても間違いないほどの影響を受けています。

その後、関西への出戻り、営業組織を率いる機会も経験したのち2008年に新規商品「はたらいく」の立ち上げに従事。関西からスタートして、東名阪以外のローカルエリアを3年、名古屋・静岡を1年担当。キャリアの最後は新規商品「はたらいく」専属の営業企画として全国の推進を3年経験しました。「頑固なヘンコ(変わったひと)」ゆえ組織長になることもなく。営業企画歴18年かつ全国各地を実際に訪問した営業企画プレイヤーは私くらいしかいないのでは?と思っております。

地球を2周する大移動「はたらいく」全国行脚で感じた課題

話を戻します。
「はたらいく」の立ち上げは非常に印象的で、北海道から鹿児島のローカルエリアをほぼ一人で受け持ち、地元拠点の営業400人と一緒に全国30県の地元企業開拓をフィールドマーケティング。ご当地ならではの様々な顧客課題に対峙してきました。

驚いたのは「何も知らない」こと。求人は地元の高校や知人からの紹介採用かハローワークからの紹介で完結。求人ツールは「新聞広告」か「折込チラシ」くらいしか知らない。当時タウンワークが全国開拓を進めており、そこに金魚のフンとしてついて回ってフィールドマーケティングをしたのですがネットを使った求人は大卒採用でナビサイトを使ったことがある会社以外は「やったことがない」。もちろん自社のホームページもないクライアントがほとんど。

理由は「パソコンが苦手」が一番。15年前はスマートフォンも今ほど普及しておらず、パソコンの起動はなかなか敷居が高いものでした。担当者は昔気質な同世代以上の方が殆どで、タイムカードはガチャンと押す機械で、経理の帳簿も紙、お店の予約も電話でうけて台帳に書く、紙をパソコンに変える習慣がない。採用も丸投げで誰かが紹介してくれるのが当たり前。その習慣が大きく存在していました。

そして二番目の理由は「誰も説明してくれない」。ローカル地域は効率が悪いので営業に来ない。知っている人も聞く人もいないので、そもそもどうやったらいいかわからない。
いまの在り方で困っておらず、困ったとて自分たちで新しいサービスを調べることもしないし、たぶんできなかったのだと思います。

そこに加えて厄介だったのは求人営業自身にネットリテラシーがないため、あえて顧客に教えない。苦手な分野を顧客から逆質問されると困るんですよね。
わたしも苦手というか、ネットの事はトンと無知で。商品担当の営業企画になった時、SaaSのサの字も知らないおじさんルーキーの私(当時42歳)に「半年後のテストで合格しないと査定を下げますよー。営業企画と言えども基本の知識がないと困るので覚えてくださいね♡」とネット基礎知識をスパルタ教育されたおかげで何とか身についたものです。(当時は鬼かと思ったが、この件も感謝しかない)

こうして顧客を一軒一軒まわってネット求人の可能性を解き、地方拠点の営業にはこのサービスの使い方、ネットに関しての知見をパソコンの横に座って教えながら、各地の利用客を一社一社増やしていきました。

東名阪福の大都市とローカル地域との人材採用習慣の違い、情報伝達の違い、パソコンリテラシーの違い、地球を2周!する距離を動き回った全国行脚で感じた課題感は大きく、結果として自分が独立してこの仕事をするきっかけにもなりました。(後編に続く)

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