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教育の根本は「自信を持たせる」こと。

「自信を持たせる為に、どのように指導するか?」を根本にして考えると、指導の仕方がかわる。


教育者は自分では気づかないうちに、「教育」という名の下に相手の「自信を削る」という行為をしてしまう事が多い。


私自身も、過去の教育方法を振り返ってみると、『正にその様な手法を用いていたな、、、。』と、今は反省している。


「これが出来ていない。」「それじゃダメだ。」「もっと頑張らないと。」などと、出来ていない所だけを指摘してしまう。


それを具体的に言えば、「アドバイス」という行為ではなく、「ダメ出し」と言われる様な行為である。


「アドバイス」には的確な指導があり、「ダメ出し」にはそれが無いことが多かった。


せめて、「ダメ出し」から「アドバイス」へとスムーズに移行することができれば、何も問題は無いのだが、「ダメ出し」だけで終わってしまうと、結果的に相手の「自信を削る」という事だけになってしまう。



話は少し外れるが、人それぞれに大きさの違う「自信の器」の様なものがある。そして、その「自信の器」の中に「自信」というものが溜まっていくと考える。


教育者は教育過程の中で、この「自信の器」を常に満杯にしてあげれるように「アドバイス」を行う必要がある。


常に「自信満々」という状態を相手に保たせてあげることが重要で、その「自信の器」が満杯の状態こそが、「情熱」、「やる気」、「チャレンジ精神」などの「自発的なエネルギー」を生み出す源となるのだ。


しかし、ここで厄介なのが、この「自信の器」の大きは、「自分自身で見極める事が中々出来ない。」という所にある。


この「自信の器」の大きさは、常に「他者」からの判断によって決められる。


その人の「自信の器」から「自信」が溢れ出していると、「自信過剰」と言われるし、逆にその「自信の器」に対して「自信」が少なすぎると、「卑下している」と言われることもある。


「自信過剰」と言われる人たちは、日本人社会文化の中では評価を下げることが多いが、逆に「謙遜する」という事が美徳とされる日本人社会文化の中でも、これもやり過ぎると、自分で自分の価値を下げるという事にもなる。


この感覚はその地域の文化や社会、習慣によって、「何を良しとするか?」が変わってくるので、何が良いとも言い切れないのだが、、、。




話を戻すと、先ほど、「教育者は自信を与えてあげることが最も重要だ。」と説明したが、時に、教育者は「自信過剰」だと思われる人に対しては、その「溢れる自信」を削ってやる必要が時にある。


教育者にも又、その人を見極める能力が必要とされるわけだ。


これを持って「教育」を「共育」と文字遊びをする人たちも多い。


この「自信の器」は自分自身で決める事が出来ないが、その器を大きくすることはできる。


「実績」や「成功体験」、「周りからの賞賛の声」などを種にして、そこに「素直さ」や「感謝」という養分を注ぎ成長させていく方法だ。


「自信の器」そのものが大きくなり、さらにその器が満たされた状態である人は、とても魅力的で、頼もしく感じる。

決して、「自信」が器から溢れているわけでもなく、また、足りていないわけでもない状態だ。




自信とは、「自分を信じること」であるが、自分を信じることは、中々、一人っきりで出来る事ではない。稀に、周りの人から、どう言われても気にせず、自分を信じることができる人もいるが、それは本当にごく少数な人だけだろう。


だからこそ、導いてくれる教育者は必ず必要であり、また、それを受け取る側の人にも心構えが必要なのだ。


最後に、自分で自分の「自信の器」の大きさを確認するためには、「客観的に自分を見つめる。」という行為が必要である。


自信過剰になって自惚れていないか?
自分で自分を卑下しすぎていないか?と。


自分を客観的な目線で見つめるには「素直さ」や「感謝」というようなフィルターレンズを必ず通して、自分を見つめる必要がある。


そういった事ができるようになれば、今度は、自分で自分の「自信の器」を大きくすることが出来る様になり、さらには、自分で自分の「自信の器」に「自信」を放り込むことができるようになっていくのだ。


そんなふうに、自分で自分を上手にコントロールできるようになれば、さらに魅力的な人間に成長できるようになる。


そういう人材を育てることが、教育者の目標として心に留めておきたい。

子供にも、仲間にも、自信を与えてあげれる人になりたい。

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