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短編小説)地平線

 いるはずもないふたりの姿を、放課後のグラウンドで走る人たちの中に探す。
 霜がとけてぬるんだ地面には、たくさんの足跡がついている。
 かけ声に、笛の音。
 すっかり遠くなってしまったそれらに耳を傾けながら、手の甲をさする。
 はぁと吐いた息はつかの間白い色をもち、少しのぬくもりを手に置いたあと、待っていたと言わんばかりの二月の空気に溶けていった。
 ぐっと、空を見上げる。
 暦の上では来た春も、受験生には、まだ遠い。

「おい、そのまま立っていたら、カチンコチンの銅像になるぞ」
 新田隼人が大股でやってくるなり、そう言った。
「わたしが銅像に? たしかにわたしは、この学校を代表するスプリンターだから、銅像くらい作ってもらってもいいかもね」
「あぁ、そうでしたね。染谷里子サンは偉いですよ。うちの高校の歴代記録を毎年更新しましたよ」
「わかっていればよろしい」
 新田はわたしの隣に立つと、同じようにグランドを眺めた。
「うちの陸上部は、女子は染谷に男子は市川と、優れ者が多かったよな」
「新田が部長で部をまとめてくれたから、みんな団結して練習に励めたんだよ」
 新田がわたしの顔を見下ろす。
「……現役時代はさんざん俺と衝突していたくせに。おまえ、そういうとこだぞ。この天然の人たらしめ」
「正直者と言って~」
「どの口が言う」
 新田がわたしをがしりと抱きしめてくる。
「体、冷たいな」
「冬だもん」
「頭のてっぺんまで冷たいぞ」
「あごで、人の体温を測るのは止めて」
 新田は笑うとわたしから体を離した。
「里子、いい加減手袋買えよ」
「新田の借りるからいい」
「……おまえ、ほんと最強だな」
「新田のおかげ」
 新田がポケットから出した手袋を渡してきた。
 この手袋は新田が市川からもらったものだ。
 新田と並んで再びグランドを見る
「走ってるな」
「走ってますな」
 新田の言葉を、オウムのようにわたしは繰り返した。
    
 わたしと新田は、陸上部だった。
 わたしが副部長で、新田が部長だった。
 別々の中学ながら陸上をしていたわたし達は、 競技会でも何度か顔は合わす間柄だった。
 高校で一緒になったとき、お互い中学でもやっていたという自負から、ライバル視する関係となった。
 そんな、わたしと新田の間に入ってくれたのが、市川新也だった。
 血の気の多いわたしと新田と違い、市川はフェアで穏やかだった。
 そんなことから、なんとなく三人セットで行動することが多くなり、わたしの高校時代を語るうえで、もはや彼らは欠かせない存在となっている。

「里子、ほれ」
 新田が手を差し出してきた。
「はて? なんだろ?」
「まさか、今日が何の日か、しらばっくれようとしているんじゃあるまいな」
 新田が笑う。

 今朝の教室は、甘い空気が漂っていた。
 比喩ではなく、本当の意味で部屋の匂いが甘かったのだ。
「ほら、里子も食べて」
 ひょいと渡された可愛いタッパーには、見るからに手作りのチョコレートブラウニーがぎっしりと詰められていた。
 今日は、バレンタイン・デイなのだ。
 この時期、学校に来ている三年は、推薦やAOやらで大学進学を決めた人や就職組ばかり。授業も大学に向けてのレポートの書き方や、復習を兼ねた英語演習といった内容だった。
 クラスも関係のない状態で、今まであまり交流のなかった同級生たちと仲良くなったりと楽しい毎日だった。
 そうなのだ。
 楽しいのだ。
 残り少ない日々だとわかっているからなのか、毎日が楽しく、愛おしいのだ。
 そして、自分が楽しければ楽しいほど、受験と向き合う日々を過ごす同級生たちを想った。
 市川を想った。
 
 カバンから出したチョコレートを新田に渡す。
「里子、こういったもんは、朝一番に渡しにくるもんだろう?」
 口では憎たらしいことを言いながらも、新田は嬉しそうだ。
「恥ずかしいじゃない。チョコレートを渡すために新田のクラスに行くなんて」
「かわいくないな~。ほんと、振っちゃうよ」
 新田の言葉に、えっ、と顔を上げると「ごめん、嘘だよ。誰がするかっ、そんなもったいないこと」と慌てられた。
 そして「里子も、そんな顔すんな」と、頭をわしわしと撫でられた。

 三年生になって、わたしと新田はつきあい始めた。
 嫌い嫌いも……ってやつだ。
 わたし達を取り持ってくれたのは、市川だった。
「だって最初から、二人ともそんな感じだったじゃない」
 大きく反論するわたし達を前に、市川はただ笑っていた。

 部活動最後の日の朝。
 わたし達三人は、いつもの朝練より早い時間にグラウンドに来た。
 おそらく、新田だったと思う。
 誰もいないグラウンドを走らないかって、そんな話を持ちかけてきたのは。

 梅雨に入る前だった。
 晴れた朝だった。

 軽くストレッチをしたあと、広いグラウンドを三人で走った。
 最初はまじめに走っていたのだけど、そのうち妙なスイッチが入り、誰かが何かを言うと他の二人が笑った。
「めちゃ腹が痛い」
 ケタケタと笑う新田の横で、「俺も」と市川も笑った。
「なんか、すげー幸せ」
 市川がぐっと、空を見上げる。
「俺、このまま、どこまでも走れそうな気がする」
 市川の澄んだ声を聞いた瞬間、わたしの目の前に平原が広がった。
 どこまでもどこまでも続く平原。
 地平線さえ遥か彼方にあるそんな場所。
 永遠に続くその場所を、このまま三人でどこまでもどこまでも走っていけたら――。
 あのとき、わたしは確かに願った。
 大学合格でもなく、日焼けでできたそばかすを消して欲しいでもなく、それだった。

 あのときの想いを、高校時代を終えようとした今になって、どうしてか頻繁に思い出してしまう。
 そして、市川のことも。

「市川が大学受かったら、またここを三人で走りたいな」
 新田の言葉が優しく響く。
 うん、と頷くと、新田はわたしのてぶくろの手を、黙ってしっかりと握りしめた。



                (おしまい)

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