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映画『怪物』 4DX?テーマが立体的に押し寄せる劇場体験

待ちに待った『怪物』を観に行ったら思わぬ"荒行"を受けてしまったという話を臨場感たっぷりにお届けします。(※軽いネタバレあり)

後方から声。ハズレ席に落胆

「ゴホゴホ、ア‶ア‶、ン‶ン‶、オ‶オ‶ン、ア‶ー、ウン」
上映が始まってすぐに、右斜め後方3メートル先の席に一定の間隔で咳き込み鬱陶しそうに喉を鳴らす中高年の男性がいることに気がついた。
ノイジーなオジボイスが坂本龍一の静かな音楽を気ままに切り裂く。今日の席はハズレか…。

あ、そういえば後ろの席はプレミアムシートだ。プレミアムシートは迷惑客率が高いというツイートがバズってたな。
ははん、「高い金払ってるんだから好きなように過ごさせろ、喉くらい鳴らすわい」ってことですか。なんて傍若無人な。プレミアムシート付近は次からやめようか。まいったな。
どうか、お腹が痛くなってトイレに行きますように、行ったきり帰ってきませんように…。祈り続けた。

スクリーンが語りかけてくる…

前方のスクリーンには、モンスターペアレントとカテゴライズされまともに取り合ってもらえない母親や、アンモラルなヤバい奴と決めつけられ休職に追い込まれる教師が映される。
”一面だけを見て短絡的に人のことを決めつけるのはやめよう、見えない面を想像しよう、おもんぱかろう、慎重になろう、自分は加害者になっているかもしれないと考えよう”などのメッセージをじわじわと感じ取る。

"怪物"というタイトリングにはモンスター〇〇やサイコパスなどと性急にレッテルを貼り他者を拒絶する風潮への問題提起も含まれていそうだ。

…あれ、今この瞬間自分は同じことをしてやしないか?と思い始めた。
“傍若無人な騒音オジサン”とカテゴライズし意識しないようにしていた後ろの男性の発する音をもっとよく聴いてみることにした。

まさかの発見

後方への意識を集中させる…(前に集中しろ)

「(低い声で苦しそうに)ゴホゴホ、ア‶ア‶、ン‶ン‶、オ‶オ‶ン、ア‶ー」
「(低い声で喉を落ち着かせるように)ンー、ンー、ヴヴン」
「(高い声で捻り出すように)アッアッアッアッアッ」

んん?!なんか喘いでない?!
3パターンをセットにリピートしている事は分かったけど、明らかに3つめだけ異様。性的というより、キュッキュッと絞まる硬質な響きで、機械的な無機質さもある。普通じゃない。喉の重い病気なのかもしれない。受け止め方が変わってくる…。

今日は水曜の夜だ。「自分は声を出してしまうけどどうしてもこの映画は観たい、でも人が入る休日だと多くの人の迷惑になってしまうから」と平日の遅い時間を選んだのかもしれない。高額なシートにしたのも「迷惑をかけてしまうから」というお詫びの気持ちから?割引の日に高額シートという塩梅も泣けてきた。

急展開

なんだ、いい人じゃないか。自分はなんてひどいラベリングをしていたのか…冷たく思慮の浅い愚かな私…と反省しかけた次の瞬間、

「(大きめの音量、ああ良くなったとホッとした感じで)っふぅ~~♪」

え、ソレは我慢できるよね?出さずにいられるよね?100歩譲って仕方なく出ちゃうにしても小さくはできるよね?
慎重に積み上げたおもんぱかりが軽やかに繰り出されたオジRELAXINGボイスによって一瞬で吹き飛んでしまった。

想像力の限界に挑む

スクリーンを観る。
“一面だけ見て人を決めつけるのはやめよう”
そ、そうだ、そうだった、いけないいけない、また同じ過ちを…。
パンフレットにあった坂元さんのインタビューをふと思い出した。この物語を作るきっかけとなった出来事についてのお話。
信号待ちで前のトラックが動かないからクラクションを鳴らした、ようやく動き出したとき横断歩道の車椅子が渡り切るのを待っていたことが分かった、自分には見えなかったから鳴らし続けてしまった、という。

それと同じように、こちらからは認識できないけれど、男性の向こう側に、男性にそうさせる存在がいるのかもしれない。匂い…匂いは3メートル離れると届きにくい。ワキガや香水…むせ返るようなキッツい匂いを放つ人が男性の隣に座っていて、思わず咳が出てしまうのかもしれない。ふぅーっと臭気を吹き飛ばしてるんだきっと。
それなら仕方がない。男性も被害者じゃないか。自分はなんてひどい…

こうやってちょっと無理してでも納得しようとするのには理由がある。わりと高頻度なのだ。肌感覚で5分おきには聞こえるからなのだ。終演まで24回は聞くことになるのだ。待ちに待った映画を後方への怒りを燃やし続けて過ごしたくはないのだ。何とかしてこれを和らげ、前方に集中したいのだ。そういう打算もあるのだ。

でもやっぱり…

「ゴホゴホ、ア‶ア‶、ン‶ン‶、オ‶オ‶ン、ア‶ー」
「ンー、ンー、ヴヴン」
「アッアッアッアッアッ」

…ハンカチや腕で口を押さえることは出来るよね?そうやって小さくする努力はできるよね?何かに遮られてる音ではないんですけど?口から出た音がスーッとまっすぐこちらの鼓膜にぶつかってるとしか思えないほどとってもクリアなんですけど?

「っふぅ~~♪」

無理。やっぱりソレだけは絶対に、絶対にどうにかできるよね?そこは寄り添えねぇかんな?
3回に1回の周期でこのRELAXINGボイスがやってくることに気づいてしまった。そんな工夫、飽きさせない適度な刺激?要らんのよ。

頓挫

…ま、まぁ、歳を取るといろんな弁がバカになると聞くし、音量調整がうまく出来なくなってるのかもな。耳も遠くなるし。彼なりに小さくしてるつもりなのかも。うん。それなら仕方ないよn…

nnんんああああああああア‶ア‶ア‶

映画!映画よ!もっとワーっと盛り上がっておくれ!音くれ音!とにかく音!おっ豪雨いいじゃん緩和されてる緩和されてる!降り続けて!ホルンもっと鳴らそうか!トロンボーン大人しいな〜もっとやっちゃお!あの声を!音を!かき消して!!

…他人を怪物扱いしていたら、いつのまにか自分が怪物と化していた。

あの席はアタリだった?

『怪物』は啓蒙的でありながら、諦念にも満ちていたように思う。人間という現象の例をいくつか並べ、作用反作用の過程を紐解き、そこから浮かび上がる普遍的な”仕方なさ”を静かに眺める。善悪の価値判断は避け、悲観も楽観もせず、割り切れないものをそのまま全部受け止める。そういう態度が見て取れた。

母親にとって最大の敵である校長が、偶然たまたま、愛息子を救う。唯一背中を押してくれる大人になる。周囲が加害者/被害者と切り分けていた2人が、なんか一緒に楽器なんか吹いちゃって、仲良くしてる。
そういうことってある。そこに理路整然として誰もが納得のいく因果律などは無い。起きるときは起きる、それだけだ。現象に善悪は無い。

劇場におじさんが来ること、おじさんが咳き込むこと、その音がやっぱり大きいこと、それにやっぱりイラついてしまうこと、イラつきを抑えようと試行錯誤してみること、それが早速とん挫すること、許容しようとした分却って余計にイラついてしまうこと…。すべて仕方がない。おじさんは、仕方がない。
努力は必要だけど、無理なものは無理。見ようとしても見えなければ、今見えているもので判断するしかないもの。メカニズムに善悪は無い。

あの席は、あの映画の場合はアタリだったのかもしれない。劇場の空間全部で『怪物』を味わった感触がある。座学と実技に同時進行で取り組まねばならないような、濃密な荒行の場でもあった。通常料金で4DX体験が出来たと思えば得した気分にさえなる。あのおじさんは仕込みだったのでは?とさえ思えてくる。でもありがとうは言わないよ、おじさん。
映画の上映中、観客の人生は決して一時停止しているわけではなく、客席でも各々のストーリーは四方八方へ進行している。そんなことも感じられた。

終演後席を立ったとき、どんな人かチラッと見てみた。どこにでもいる普通の人だった。

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