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不安の温度(ポエミーなつれづれ)

生きるうえで、大小何かしらの不安は常にある。いつも、たたかいせめぎあっている。その状態こそが生きることであって、正誤があるわけではない。不安を感じることは悪いことではない。

私が経験から知っていること。
不安はやっつけたり、取り除いたりはできない。だから無視せず見つめてあげたほうが、たぶんいい。

でも、不安から生じる不穏や不快を感じながら、なんとか歩かなければならないことは、しんどい。不安を抱え続けることも不安だし、私の不安を完全に共有できる人もいない。

同時に、不安は私にしか持てない大事な感覚でもあると思う。だから、自分のなかでふと腑に落ちるまで、時の経過の中で軽くなるまで、頭の底が抜けるくらい考え抜いて納得するまで、学びや誰かの言葉が私にあたらしい目を開かせてくれるまで、動き続けることで色が変わるまで、かたくなに持ち続けて飽きて疲れ果てるまで、空虚な言語化を繰り返し続けてどうしようもなくなるまで、のたうちまわって吐くまで、語って語って何を語ってたのか訳わからなくなるまで、そして、何が不安なのか逃げ場がないほど突き詰めてそれでもまだ私は不安か確認するまで、そうやってなんとかしながら、つねに揺らぐ不安も私も、そのほかの感覚も、一緒にいるしかないのだ。

だいたいは対人の不安。
これを言ったら
こんな行動を取ったら
私はどう思われるだろうか。
それはすごく気になるけれど(正直、他人から否定的に見られることを想像すると吐きそうなほど)、私は心のなかで「どう思われてもいい」と完全なる虚勢を張る。

だって周りから変に思われないために、私の不安に蓋をしたら、合わせるためだけに行動したら、不安はもっとへばりつくような気がするし、もっと抱えこまなきゃいけなくなる。孤独が深まり、致死率が上がる。

もっと、自分の不安とあなたの不安と、ひとりひとりの不安を取り出して、並べて見くらべることが大切な気がする。同じところ、ちがうところ。。。共感や共有はできなくても、かたちや色や肌触りのちがいを確認し合えたら、いいと思う(どうしたら、疑心暗鬼から抜け出せる?)。

身体の中に、渦巻く不安を感じている。今回はこうしてこうなっていくのだな。冷静に観察しながらも、うまく眠れない、うまく飲み込めない、呼吸が浅い、噛みしめ、おなか痛い、吐き気、皮膚むしりなど、不安がもたらす心身への反応は、私の土台をフラつかせる。落ち着きや、活力、集中は奪われる。

話すことを最大限に避けて生きてきたくせに、どう思われてもいいと虚勢を張っていたくせに、結局最後に助けられるのは、言葉にすること、言葉を交わすこと。自分を見下す私を御して、対等をこしらえること。

不安は、ただ持っていてもなくならないから、このたたかいは誰にも気付かれないから、言葉で私の外側とつながって、たたかっていることを知らせるための、アラームを鳴らす。   

私は私がつながった外側を見ている。すると、足の小指ほどの安心に出会う。
アラームを鳴らせるようになったことと、誰かと言葉を交わすことにたどり着けたこと。その安堵と幸運を思う。

アラーム音が鳴りひびく
みんなの目が、さめていく
(まるで私の存在そのものに気付いてもらえたかのように)

たたかっているうちに、別な不安は薄れながら溶け出し、手の中の不安は、その温度と表情を変えていく。




このnoteが社会との接続の仕方をさまざま試みる私の足跡ならば、拙著『かんもくの声』は私が社会と接続できなかった頃の話かもしれません。
こんな人もいるよ、という場面緘黙の本です。▼


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