人生体験がいかに豊富であるか
人間、真理・実相のことを分るようになるには、下地が必要となる。この下地が無くば、何を見ても聞いても与えられても、自分のものにはならない。分かったと思っていても、それは真の悟りとは言えない。己は、その下地があるか?本当に下地があれば、一を聞いて十を知ることが出来る。真理への到達は、この感性がなくば成すことは出来ない。では、この下地は、どうすれば創ることが出来るのか。それは、人生体験がいかに豊富であるかということ。その人生体験の意味は、間違っても旅行に何処に行っただの、何を食べただの、何を観ただのということではない。そのような場面や経験が駄目だということではなく、一つひとつの事象をどの様に捉え、感じ、思考し、悩み、苦心、苦労を重ね、乗り越えることが出来たかということ。これは人間社会であれば、3年5年の話ではない。一つの生涯の中で、少なくとも50年の半生を掛けて作り上げたものが下地となっていく。「何を言ってやがる!そんな生真面目なことばかりで、辛いのは端からご免だ!人生楽しけりゃそれでいいんだよ。笑って楽に暮らせりゃ儲けもんだ!」大方、そのような反応であろう。まあ、それも良かろうに。生まれ出た命の約束を忘れ、今世も安穏と暮らすが良い。もはや、下地のない人間には、何が与えられようとも一の一すらも理解することは出来ぬ。人生、悟りの先は果てしなく長いのう。堂々巡りを止めたければ、下地作りに専念するといい。そこから半生。下地が出来れば、一を聞いて十を知ることが出来るようになるのであるから勢い次元を飛び越えることが出来るようになる。それを今世約束して皆生まれてきているはずなのだが…。
そのことを肝に銘じ、今日から下地作りに専念し、多くの人生体験を積みます。
有難う御座います。
幸せを呼ぶそよ風チャリダー/サステナビリティイノベーティブコンサルタント。「感謝感動を世界に地球に」のカングロ代表、ザッポス研究会、イノベーションサロンZ、システムD研究会、サステナ塾、セブメディ創設者