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共存はあり、共生はなし

ちょっと抽象的なお話だけど、最近の体験から書いてみます。
 
僕は、脳外傷の後遺症の影響で、一旦ダメになった人間関係、環境、雰囲気などなどのレジリエンスがとても低いです。 
 
無理に我慢すると、体調がさらに悪化した経験あったりもして、今は無理せずに生き延びる、という感じで生きています。
 
有史以前もそうだと思うけど、有史以来からずっと、人と社会、自然は淘汰され続けてきた歴史があって、それぞれみんなが「合理化」=自分はある程度正しい、という理由から生き延びてきたのだ、と認識しています。
 
僕の身近の出来事において、最近、関係がダメになった人がいて、体調崩して、引きこもって、というこんな中年の僕なのですが、もう何度も繰り返しているサイクルなので、今は無理をしないようになってます。だけど何とか前向いて這い上がりたいとも思っています。
 
 
そんな時にふっと浮かんだのが表題の「共存はする、共生はしない」です。
 
確かに、弱肉強食のルールでも、大きな森の中で、肉食の大型哺乳類と、小型の動物は共存しています。ねぐらは共にしていないし、普段も一緒にいるわけではないけれど、大きな森のなかでは、常時の共生はしないけど、大きくは共存している、とも言えます。

共存と共生の違いは、大きな視点から俯瞰すると、同じかもしれないですね。その生物側から見た主観を排除した全体の「系」または「システム」として考えると、共存関係にあります。
 
 
ただまあ、僕の感覚で人間に当てはめると、家族や友達、一緒に活動する人は、共生している状態で、嫌いな人、敵、対立する国、集団など、好んで普段一緒にいない人などは、地球という場や生態系のシステム論において、いがみ合っても共存していければいい、という感じでしょうか。
 

今まで、人を嫌いになってはいけない、上手に戦わずに、軋轢を生まないように、と日常生活で努めてきたけれど、様々の人々と気まずくなって、別れてきて、もう二度と会いたくない人も沢山いるのですが、そんな人とも、大きくは共存はしているなーと思っています。

僕なりの「合理化」ですが、世界はそんな
「共存」と
「共生」と
「合理化」で
溢れているし、僕という小さな個人の主観でみれば、それでいいのだなぁ、、と合理化しています。

多分、政治家や経営者はその全体の「システム」の改善や調整が仕事になるから、市民側である個人の主観からは、様々な反論や攻撃を受けるのが通常なんでしょうね。

誰かの意見を反映すると、誰かの損益にも直接間接的に影響して、また誰かの、、、というそんな繰り返しと調整が何度も行われて、調整役の政治家が変わって、また繰り返して、そんな全体の共存を考える支配者層と、自分の周りの共生が主な関心事の個人との関係は、いつまでも大きくは変わらない気がしています。


 
以上です。また意見が変われば、その時に考えたいと思います。



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