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加点式と減点式

これまで様々な学びの場や働く場、団体等に身を置いてみた経験からと、日々のニュースやコメントなどから気が付いたことがある。

日本という国は、多くが「減点式」だ、と。

人に迷惑をかけてはいけません、と学校で先生から、家では両親から言われたことがある人は多いと思う。そしてそれが「正義」「正しいこと」として、その軸を基準に批評家やマスコミが発言することもよくみかけるし、世間全体がそんな空気感を持っている。

例えば小学校の時に「お漏らし」をしてしまった生徒は、それ以降ずっとその「減点」を背負っていく。刑法、民法上の罪を犯した人が罰を課されるのと同じように。

一方、インドでは「人に迷惑をかけるのは人間として普通である、だから人を許せるようになることが大切」というような教育方針があると新聞で読んだ。インドには様々な部族や宗教、社会組織があるので、これが一般的なのかどうかは判断できないが。ただ、このインドの考え方は「加点式」だ、と感じた。

どちらがいいか、また「良し悪し」と「善悪」の是非などは、ここでは論じないことにして、「加点」と「減点」について考えてみたい。

加点式とは、失敗してもゼロカウントで、成功した時だけポイントが加算されるのが原則。

減点式とは、仮に全員が10ポイント持っていたとしたら、何かに反したり、失敗したりすると評価する側がそのポイントが減らしていく。だから、それを失わないようにすることが基本姿勢となる。この評価方法だと、失敗をしないために無駄なトライはしない傾向が一般的になってくる。

どちらがいいのか。TPOにもよるが、僕個人としては「加点式」がいい。

今のコロナ禍で、日本の社会全体が元々「減点式」だから、わざわざポイントを失うような言動をしない人が多くなるのは方程式上、仕方がないようにも思う。何か事を起こして減点されるならば、何もしないでポイントを保持する、多分これが「変わらない日本」の要因の一つなのではないか、とも。

では「加点式」で生きていこう、と誰かが提案し実行しても、社会全体の底流に「減点式」が根付いている場では、「俺は加点式だから、失敗はゼロカウントだ」と主張したところで、周りや世間の評価方法は減点式だから、周りが「減点」と評価したら、その後の生活や食い扶持、仕事等々に大きな影響が出てきてしまう場合がある。

問題は、ここでいう「大きな影響」についてだ。食い扶持や仕事において何らかのペナルティを得ることは、衣食住の生活に直結する。言い換えれば、生きるのがしんどくなる、苦しくなるともいえる。

何度失敗しても立ち上がれる人は、そんなに多くない。健康でエネルギーに満ちている人はいいかもしれないが。僕は結構弱いほうだと自覚している。。。

そして、「減点式」で生きてきた人達がつくる社会集団は、「許すこと」が構造的に苦手になる。自分は何もしていないのでポイントは減らないが、誰かが何かにトライして失敗した場合、周りの人が労力や時間を奪われた、迷惑をかけられた、と認識した刹那に、心の中でその人を「減点」してしまうだろう。特に世間に迷惑をかけた、と評価側が主観的に認識した場合は、「許容」という大きな心を持ちづらくなってしまう。

コロナ禍の政府の対策や、クラスター等のニュースを見ていて、そんなことを考えてしまった。

そういえば、「加点式」って、これまで本当に少ない場面で、限られた状況でしかなかった気がする。皆さんはどうお考えでしょう。



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