Daisuke Kaneko

思考の記録。 #イトマ

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最近の記事

ビジョン

楽しく生きるためには、食と健康が大切だ。 食と健康が持続可能になるためには、自然や生物が多く残る地球である必要がある。 そして、それらを搾取せず、分け合いながら生きていくためには、 「あたりまえを問い直す」姿勢が不可欠である。 なぜなら、人間の脳の構造として、一時的に安定した生活を送ると、正常化バイアスなどにより、私たちはそれを当たり前を感じ、あらゆる変化に気づきにくくなるからだ。 また、都市部の生活は、多くの場合、身の回りの変化という情報を限りなく合理的に削ることにより、

    • 続・縄文時代に戻れば良いと言ってる人について

      この前の考察で、 『縄文人は、身近な人が生きる為の食料があり、暇な時間があれば土器や土偶を作ることができれば十分だった。ある意味、足るを知る生活をしていた。 正直現代でそれを行おうと思えば、できる世界である。』 という書いた。 これは言い換えれば、 現代は、縄文時代のような生活も可能であり、かつ、ITや医療などの進歩により、より幅広い経験、冒険ができるようになったのが現代である。 どちらも選ぶことができる時代に、なぜ全員が同じく縄文人を目指すべきなのだろうか。 多様性の時

      • 縄文に戻れば良いと言ってる人について

        縄文時代とは、日本で言えば紀元前1万2000年前ぐらいから紀元前3、400年ぐらいまでのことを指し、非常に期間としては長い。※弥生時代との境目は諸説あり 縄文時代に関して、科学の進歩により、生活や文化に関して研究が進みつつある。 その上で、縄文時代の素敵だと感じられる要素を捉えて、縄文時代に習うべき、縄文時代に戻るべきという人がいる。その人たちがそのように言う理由をいくつか考えたい。 縄文時代要素をいくつか思いつくものを箇条書きする。 1.狩猟採集(自給自足)生活 2.人

        • みんなの特徴

          流されるとはを話す流れで、偶然みんなの特徴が話されて、 みんなしっくりきたので、メモで残しておこうと思う。 とりあえず自分の特徴がとてもしっくりきた。 フィールドは、川から海で、大きな水の流れが社会、世間の動きだとして。 Oさんは、そこを非常に上手く泳いで生きている。上流のどこかを目指すとか理想がどうとかではなく、その時の流れを読み、周りの環境を感じて好きに泳ぐ力があり、どこでも生きていけるようなイメージがある。周りから見たら非常に器用で、考えていて力強いが自分にはそんな意

          AIと人間どちらを信頼するか

          思っていること、言っていること、やっていることをAIは一致させているから信頼でき、人間は一致させていないから信頼できないから信用関係止まりになるのではないか。 という問いを頂いたので、考えてみる。 AIという定義は幅広過ぎて怒られそうなのでざっくりと定義すると、落合陽一氏などが想定するデジタルネイチャーのレベルのAIなのか、身近なAIとしてのchat GPT的なAIなのかでいれば、今回は後者のイメージを定義する。 そもそも僕らは、これら3つを完全に一致させることはできない

          AIと人間どちらを信頼するか

          地方も都市も高齢者問題

          NHKの高齢者問題の討論番組を見ていて思ったこと。 2050年には、人口の約半数(45%近く)が単身世帯になることを、国立社会保障・人口問題研究所が発表し、その際に、男性の約6割、女性の3割が生涯未婚で単身であると予測を出した。 25年後の話というより、今も大きな問題になっており、明確な解決がないのが現状である。 高齢者は、賃貸に移住することが難しい問題。 単身の場合は、死後の処理の対応や滞納の責任を誰が取るのかが難しい。 個人情報やペットの問題も加味すると、八方塞がり

          地方も都市も高齢者問題

          なぜ充実していることを他者に伝えたいのか

          これは、自分の中にもある要素なので何となく気持ちは分かるが、多くの人と共通しているのかは分からない。 構造的に、それをすることで生き残ってきた歴史があるのかもしれないと思うと、生きて行く為にはある程度必要な姿勢なのかもしれない。 ここでイメージする充実していることを他者に伝える手段は、SNSである。 SNSにおいて、ありのままの自分を提示することは不可能であるという前提のもと考えたときに、投稿する人たち(それ自体が収益になっているインフルエンサーを除く)のモチベーションの大

          なぜ充実していることを他者に伝えたいのか

          義務教育とは

          今年のテーマは、「義に務めるとは何か」な気がする。 そして、半年前に義について書いていたものを読み返して改めて書いてみる。 まず、定義として、義とは、個人や社会の価値観や文化によっても異なる解釈がされる場合はあるが、一般的には、他人への尊重や公正さ、誠実さ、公共の利益の追求などが要素とされる。 また、義のある社会は、道徳的な判断や行動を通じて社会的な秩序を維持し、他人との関係を健全にする役割を果たす。 つまり、義に務める(義務)とは、「道徳的判断や行動を通じて社会的秩序

          義務教育とは

          ふるさととは

          ふるさとについて昨日解像度が上がった為、メモ。 ふるさととは何か、という議論をこれまで何度かしてきたが、一度もしっくりきた事がない。気軽にふるさとという言葉を使う人にもあまり会わないが、会ったしたら違和感があった。 “ふるさと納税“を実施し始める際に、ふるさととは何かを総務省が定義しようとしており、それらの資料を見てみても何か腑に落ちなかった。 自らが育った場所、両親家族が住んでいる場所などが主なふるさとのイメージとなっていたが、それは分かるが、その場合は、「地元」や「

          ふるさととは

          絶望感と自己嫌悪

          役に立たない、むしろ迷惑、という存在だと強く感じる自分。 体調が悪かった以上に本当に息苦しく、本当に生きるのが辛かった。 このような感覚が、仕事場や家庭を埋めている、これからもこれで埋まるのだと思うと、おそらく鬱になるか、自殺するかのような流れになるのだろう。 そんなに嫌なら死ねば良いんでしょ、と気軽に思う。 これが飛躍だということはわかっているが、死なないと解決しないけどなと思う。 このような感覚になるなら体調が悪いことを隠して無理して動けば良かった。 でもきっとこ

          絶望感と自己嫌悪

          何が伝えたいのか

          伝えるという分野における本はたくさんあるし、どれもきっと正しいと思う。 伝えることが上手いのは天性のものだと思う人もいるのだろうが、一人一人のその時の表情をしっかりと見て、自分が伝えたいものを伝えようとしてみること以外に大切なことは無いように思う。 言葉が詰まったり、内容を忘れてしまったりしても、 そもそも何が伝えたいのか、そこだけを毎回思い出すようにしている。 つまり、話が全てときに変わってしまっても良いと思っているし、むしろそのようなイレギュラーを楽しみにしている。が

          何が伝えたいのか

          閉塞感から

          社会課題として現在最も解決したいと考えているのは何か、それを一言で表すと、という問いから出てきた言葉。 何が問題かといえば、自分の中で問わない社会であることが問題である。 問わない社会の何が問題かといえば、問わないということは、この社会に自分の意志を反映することはできない。 自分の意志が反映できないということは、この社会からの価値、必要性、役割が代替可能な存在となるし、自分自身もやり甲斐、生き甲斐を感じにくい。 また、問わない社会は、正解(ぽい)ものを選び取っていくゲームと

          分からないということを分かるために分かろうとする必要がある

          偶像崇拝はするなという規律があるのに偶像崇拝をする。 文字化するなという規律があるのに文字化して経典にする。 お金の恩恵、お金があることを前提としているにも関わらず、お金を無くそうとする。 布教するためには 活動を継続させるためには お金を信仰の対象から外すためには 色々な理由があり、それがやり方が間違っているとは言わないが、どうしても分からない。 分からないということは分かっているが、 分かっていると思っている人は本当に分かっているのだろうか 分かろうとすればするほ

          分からないということを分かるために分かろうとする必要がある

          雑草は人間とずっと一緒だった

          ホモサピエンスがアフリカに登場したのが約20万年前で、移動し始めたのが10万年前後。 雑草の祖先として現在確認されているものは約10万年前。 これは厳しい氷河期が落ち着いた時期であり、人間も同時に移動を始める。 また、数万年経つと、氷河期がまた始まり、今から1万年前程度には、また氷河期が終わる。そしてその氷河期と共に、農耕が始まる。 つまり、雑草は人間の誕生や移動と常に共に存在し、逆に言えば、人間が活動を終えて仕舞えば、弱い植物として淘汰される存在かもしれないということであ

          雑草は人間とずっと一緒だった

          農と笑

          昨日書いて思ったが、農は作業自体は現実なのだが、どこまでいっても理解ができないフィクション的な過程があり、それが自然と多様な妄想を生む。 すぐには作物ができないからこそ、豊作を願った様々な祈りや儀式が生まれる。 これはいわゆるフィクションと現実の狭間で、行われているものであり、非常に虚実皮膜な気がする。 そしてそこで行われていたものが、遊び(芸)に転化され、笑いとなる。 天照大御神を岩戸から出した方法が、舞と笑いだった事からも、神話の世界でも、エンターテイメントが重要だとさ

          笑いとは何か 後半(日本文脈)

          日本的には笑いとは何だろうか。と考えた時に、一番はやはり、“間“である。 その“間“がおかしなやつを“間抜け“と言ったりする。 日本のお笑いは、「間」を非常に重視する。 「天丼」という手法も、「いじり」という手法も、間を間違えば、全く面白くない。 文章では、なかなか間が表現できず、日本のお笑いは伝わらないだろう。 つまり、日本では、西洋的な“笑い“そのものを重視するというよりも、 手段的な“遊び(余白)笑い“があると思う。 なぜこのようなお笑いが日本で生まれるのかを考え

          笑いとは何か 後半(日本文脈)