笑いとは何か 後半(日本文脈)
日本的には笑いとは何だろうか。と考えた時に、一番はやはり、“間“である。
その“間“がおかしなやつを“間抜け“と言ったりする。
日本のお笑いは、「間」を非常に重視する。
「天丼」という手法も、「いじり」という手法も、間を間違えば、全く面白くない。
文章では、なかなか間が表現できず、日本のお笑いは伝わらないだろう。
つまり、日本では、西洋的な“笑い“そのものを重視するというよりも、
手段的な“遊び(余白)笑い“があると思う。
なぜこのようなお笑いが日本で生まれるのかを考えると、おそらく日本は、歴史上外敵の影響が少なく、笑いによって集団の差別化を図る必要性がなかったからではないだろうか。
つまり、笑いはネガティブに利用されるケースが少なかった為だと思う。
そのような中で、日本の笑いの文化は、多様に導入され、笑いに変えてきた。
例えば、仏教における時宗のような踊り念仏や、能を変化させていった歌舞伎、鳥獣戯画のような絵巻や現代の漫画、電子音を並べられる技術から初音ミクなど、すべて元々あったフレームをいじり、遊びを入れることで「芸」としてのお笑いを作り出している。
このような日本の芸(笑い)としての本質について、近松門左衛門の虚実皮膜(きょじつひにく)論として表現している。
虚実皮膜とは、フィクションと事実の間の皮ぐらい薄い膜に、芸の本質があるという理論である。これはつまり、虚実の“間“に、面白さ(芸)があり、芸を追求するとは、その間を追求するということである。
しかも、皮膜と書いて、“ひにく“と読ませるところも素敵である。つまり、人生の中での悲惨な出来事や事件に関して、ただ批判するのでもなく、ただ悲観するのでもなく、皮肉としてのお笑いに昇華させる“間“に、芸があるということである。
これはチャップリン(爆笑問題太田)の柔軟性と硬直性のようなお笑いを含みながら、カント(松本人志)の緊張と緩和という意味合いも含んだ芸論であり、非常に素晴らしい理論だと思う。
その上で、現代の面白いと思えるエンターテイメントを眺めてみると、やはりこの虚実皮膜論に非常に沿ったものが残っていると思う。
例えば、アニメや漫画はその典型である。つまり、非常にリアルなストーリーやキャラクターだったとしても、フィクション的な表現があり、それがあるからこそ、より共感ができたり応援できたりする。
アイドルも、本当はそのような人格ではない人が、アイドルとして振る舞うフィクションを信じることで推し活というエンターテイメントが成立していたりする。
お笑いの落語や漫才、コントも、同様である。
そして、これからの社会にとって、“笑い“とはなんだろうか。
これまでの“笑い“に関する考察をまとめた上で、個人的には、
“笑い“とは、妄想(ビジョン)というフィクションと、生活(現実)という事実の“間“を生きていく“意(意志意識意味)と間(時間空間仲間)=暇(いとま)“がある日々に生まれるものだと思う。
戦争や災害時に笑えないのは、事実が重くのしかかり、未来に楽しい妄想ができないからだろう。具体的な妄想ではなくとも、一緒にいる仲“間“との時“間“や空“間“の“間“とその"間"に対する"意"さえあれば、きっと事実が重くのしかかっても乗り越えていけると思う。
言い換えるならば、くだらなくて一緒にいて楽しい仲間は、これからもきっと一緒にいたら楽しい“間“を共有できるという妄想"意"ができるから、現実を乗り越えていけるのだろう。
衣食住を自給するだけでなく、笑いも自給するという意味でいえば、それはきっと妄想しながら、生活していく、ということであり、
現代社会は、楽しい妄想が中々持てない、つまり“暇“がないことが問題であり、本当の意味で笑えない社会になっていっているからこそ、“意と間“を持って笑える人がいる社会を作ろうと思う。
非常に長くなったが、笑いに関してでした。
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