何が伝えたいのか
伝えるという分野における本はたくさんあるし、どれもきっと正しいと思う。
伝えることが上手いのは天性のものだと思う人もいるのだろうが、一人一人のその時の表情をしっかりと見て、自分が伝えたいものを伝えようとしてみること以外に大切なことは無いように思う。
言葉が詰まったり、内容を忘れてしまったりしても、
そもそも何が伝えたいのか、そこだけを毎回思い出すようにしている。
つまり、話が全てときに変わってしまっても良いと思っているし、むしろそのようなイレギュラーを楽しみにしている。が、なかなかそんなことは起きない。
でも結果的に毎回同じ内容にしているのは、どこが刺さるのか、逆に刺さらないのならどのような話し方、エッセンスを入れたら揺さぶれるのかを意識する。
その中でもほとんどが興味のないような時もある。
でも10人もいれば、一人は確実に何か引っ掛かっている人もいる。
何か引っかかっているなと思ったら、その人だけに焦点を当てても良いと思う。
どうせこちらが意図することのほとんどは人には何も伝わらない。
でもきっとその時の何かは残すことができるかもしれない。
だとしたら自分にはその時何が残せるのか、残したいのか。
そんな覚悟や切り替えが、伝えるという仕事をする上では必要な気がする。
無形で原価がかかるサービスではないからこそ、持って帰ってもらうものは何なのか。
つまらなかったと99%思ったとしても、残る言葉が一つでもあれば、残る感覚が一つでもあれば、それはいつか価格以上の価値となると信じる、という姿勢が、伝える人の責任なのかもしれない。そしてそれを別名、贈与と呼ぶのかもしれない。
SNS発信は、その責任と覚悟がない者たち、それを受け取る姿勢のない者たちの交流がほとんどだからこそ、伝える場ではないと思ってしまう。
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