AIと人間どちらを信頼するか

思っていること、言っていること、やっていることをAIは一致させているから信頼でき、人間は一致させていないから信頼できないから信用関係止まりになるのではないか。
という問いを頂いたので、考えてみる。

AIという定義は幅広過ぎて怒られそうなのでざっくりと定義すると、落合陽一氏などが想定するデジタルネイチャーのレベルのAIなのか、身近なAIとしてのchat GPT的なAIなのかでいれば、今回は後者のイメージを定義する。

そもそも僕らは、これら3つを完全に一致させることはできない。
思っていることも、言っていることも、やっていることも、それぞれ常に変化しているものなので、それらが原理としても一致しないし、一致していることを認識することもできない。

しかし、一致させていく過程、姿勢の中に、非常に意味がある。
日頃、自分がどのような言葉で、どのような発信をしているのか。日頃自分はどのようなことを感じ、考え、思っているのか。そして、何をどのようにやっているのか。

それらを俯瞰して捉え直す(問い直す)ことで、ざっくりと方向性や状態を把握することができる。ただ、私たちは、脳の認識コストの仕組みから、記憶も解釈も、どんどん合理化していくことで、“あたりまえ“の状態を作り出す。
最初はめちゃくちゃ大変でこんなの無理だと思うような作業でも、数日ずっとやっていれば、それが“あたりまえ“になってくる。むしろ、この合理化がなければ、常に高ストレスがかかる状態で、心身ともに疲弊してしまうので、ある意味防衛反応として、あたりまえを作っている。

そして、この機能は、狩猟採集時代や、集落単位での生活であれば、情報量が限られており、そこまで“あたりまえ“の不便さがなかったが、現代は、情報量過多に加え、複雑性、不確実性などが加わり、“あたりまえ“など存在しない程度の変化を見せているのに、それらを“あたりまえ“として合理化することで、本当に見なければならないものが見えなくなっているのではないか。

だからこそ、意識的に“あたりまえを問い直す“という姿勢がなければいけないのだと思う。
それは、言語的でも行動的でもビジュアル的でもどのような形でも。

表題の問いに戻ると、AIは3つを一致させているのだろうか。
一見、限りなく一致させることができるものだと思う。
そういう意味では、“信頼“できる気がする。

ただ、僕らは、“生きる“に値する実感や豊かさを、AIを信頼することで得ることができるだろうか。おそらく、AIはどこまでいっても、意味のある価値よりも役に立つ価値として存在するのではないか。もちろんどちらの価値もあるのだが。

なぜなら、AIは替えのきく存在である。替えがきく存在は、信頼に値するのだろうか。
僕らは、未熟で、失敗し、正解なんてほとんど分からない。生きていて役に立つかもわからないが、それでも、熱意や意志に魅せられ、繋がりたくなって、信頼したくなる時がある。

だからこそ、裏切られた時は悲しい。
でも、裏切られたというのも、それは、相手を見ているのではなく、相手に期待している自分の想定と違っただけであり、それはそもそも信頼していない。
濃度の濃い信頼とは、相手がどのような行いをしたとしても、それを信じようと思える姿勢の中に生まれるものであり、それはきっと愛という言葉(概念)に変わっていくのだと思う。

個人的には、将来的にはドラえもんのような形で、ロボットやAIに愛が生まれる気がしてるが、現在のchat GPTのようなレベルであれば、愛までは繋がらないのではないかと思う。

話を戻すと、円の内側が信頼関係で、外側が信用だとしたときに、現在のAIは十分内側の信頼に値するレベルにも入るのかもしれないが、それが最終的に愛に変わることは感覚的にはない気がしている。ただ、現在の人間たちのSNSやヤフコメのようなくだらないコミュニケーションをするぐらいなら、chat GPTのが断然信頼できる気がすると思う。

結論を言えば、未熟で、3つが一致できていないということを認め合い、でも諦めずに一致させていこうと思える信頼関係が、仲間な気がする。そこに人間と人間のコミュニケーションの面白さがあると思う。

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