閉塞感から

社会課題として現在最も解決したいと考えているのは何か、それを一言で表すと、という問いから出てきた言葉。

何が問題かといえば、自分の中で問わない社会であることが問題である。
問わない社会の何が問題かといえば、問わないということは、この社会に自分の意志を反映することはできない。
自分の意志が反映できないということは、この社会からの価値、必要性、役割が代替可能な存在となるし、自分自身もやり甲斐、生き甲斐を感じにくい。
また、問わない社会は、正解(ぽい)ものを選び取っていくゲームとなり、情報過多な生活では、非常にハードなゲームとなる。そして、それを選び取っていき、大きな不正解を選ばない為に、世間の空気を常に気にして生きることになる。
世間の空気を常に気にして生きることになると、そこには自分はおらず、自由もない。
そして、そのような存在は、社会的には希少価値となることは難しい。

問わない社会は、政治も経済も教育も産業も、どの分野においても、変化に適応できずに、耐久年数が過ぎたシステムを維持していくことにコストを使っていく事になる。

耐久年数が過ぎていたとしても、何か大きな衝撃がない限りは壊れないという感覚が、現状維持を望み、何も動かない、何も問わないという結果になる。

問うという行為は、批判とも受け取られることがあり、また、対話の持久力が必要となる。
問いに対しての思考時間、返答時間、そして自分の意見を述べる時間、相手の意見を聞く時間、それら全てを共有する相手がいる必要があるが、問い方、間柄によって、誰とでも問う(問い合う)という行為ができる訳ではない。

一方で、問い合う行為ができる組織は、つまり対話持久力がある組織は、お互いの考え、方向が見える為、組織としてビジョンを共有しやすく、一緒にいて居心地が良くなる。

また、問わない社会は、相手を知ろうとしない社会でもあり、言い換えれば、正解を決めつける社会でもある。これは、自分が信じる正解以外は認めないという排他性につながり、争いの元になる。
平和主義者が“軍事“の意義を問わなくなったことで、軍事を行う国を野放しにすることなり、結果ナチスが生まれた。
自分が信じるものだけを見るのではなく、その反対には何があるのか、その意義は何なのか、を問う姿勢は、世界を最悪の事態にはしない。

失敗は社会も個人も当然存在し、むしろ改善の連続なので失敗しかないだろう。
しかし、破滅的な失敗(受け入れ難い不条理な有事)は、繰り返すべきではない。
だとしたときに、破滅的な失敗を起こさない為にも、私たちは問う社会を作らなければならない。
哲学的に問うということではなく、様々な角度で“〇〇的“に問えば良い。〇〇には何を入れてもいいと思う。ただ、問うという姿勢を常に持ち続ける姿勢が、お互いの大きなすれ違いを防ぐのだと思う。

すると、結果的に個人も社会も、閉塞感を抜け出せるのではないかと思う。

そもそも、問うことで何が一番良いかといえば、変化を感じることができる。
世界は常に変化しており、自然も常に変化している。
毎年同じことをしていたとしても、自然の中では、常に変化しているからこそ自分も変化する為、問わなくても変化を感じることができる。

しかし、現代社会は、スマホとPCからの情報がほとんどで、変化を感じづらい。
変化が感じづらいと、生きている実感や成長も感じられない。
それでは、閉塞感になるのは当然である。

だからこそ、どのような環境でも、変化が感じられるためには、問う社会を作ることが大切なのだと思う。

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