続・縄文時代に戻れば良いと言ってる人について
この前の考察で、
『縄文人は、身近な人が生きる為の食料があり、暇な時間があれば土器や土偶を作ることができれば十分だった。ある意味、足るを知る生活をしていた。
正直現代でそれを行おうと思えば、できる世界である。』
という書いた。
これは言い換えれば、
現代は、縄文時代のような生活も可能であり、かつ、ITや医療などの進歩により、より幅広い経験、冒険ができるようになったのが現代である。
どちらも選ぶことができる時代に、なぜ全員が同じく縄文人を目指すべきなのだろうか。
多様性の時代だと言いながら、縄文時代を賛美する人たちは、資本主義社会、民主主義社会が何とか多くの人の多様性を担保しながら、違いを包摂しようとしてきた努力をどう思っているんだろうか。
この前も書いたが、縄文時代の方が、多様性が認められることはなかっただろう。
自分の所属する集団では、自分の違いを認められなかったからこそ、ホモサピエンスは、アフリカから飛び出すことができた。
そして、その飛び出していった連続が、文明、文化を世界各地に作っていった。
ホモサピエンスがアフリカに誕生したのが20万年前で、アフリカを出たのが10万年前、
つまり、10万年間は、大きく動くことが出来なかった。
そして、気候変動というタイミングで、強制的に移動を余儀なくされ、思春期と呼ばれる、怖いもの知らずの世代が集団を飛び出していった。
世代を重ねるごとに、思春期の怖いもの知らずが世界を広げ、10万年ほど前からアフリカを飛び出して世界に散らばったホモサピエンスが、南米まで到着するのに約8万年かかっている。これがいわゆるグレートジャーニーと呼ばれる、人類最初にして最大の冒険である。
縄文時代が始まった頃は、1世代30年とした場合、私たちの世代から約530世代上であり、縄文末期は、77世代上である。
これをとても遠い祖先と捉えるかどうかは個人差があるだろうが、個人的にはたった77世代前は縄文時代であり、ちょうど人口が26万人から8万人になり、つまり3分の1になってしまい、限りなく厳しい生活を送っていたのではないかと思う。
しかし、77世代繋いできた今は、グレードジャーニーの移動距離を数日で移動することができるようになった。これをご先祖様はどう感じるだろうか。
7世代までは、まだペリーも来ていない江戸時代だ。
6世代前にペリーが来て、5世代前に西郷隆盛たちが新明治政府を作っていた。
つまり、おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんは、その時代だ。
今から5000年前のエジプトピラミッドに、「今時の若いものは何も分かっていない」ということが書いてあるというのは有名だが、まさにどの時代も、変わらず、高齢者が保守的で、若者が失敗を繰り返しながら新たな時代を作ってきた証拠だと思う。
変わらないことを選んできた者も、昔へ戻ろうとした者も、その者たちが作った社会は今残っていない。今残っている世界は、その時の環境、構造の課題を乗り越えようとする意志のある者たちの結果だ。
その結果の上に私たちの生活が成り立っている。
過去とは、今をよく知り、今をよりよく味わう為のものである。
ピダハンのように、過去、未来の概念が無くても楽しく生きることはできるだろう。
でも、過去と未来が存在することで、多くのことを知り、多くのものを経験できるようになった。それが良いか悪いかはわからないが、僕はその世界に生まれて良かったと俯瞰して思う。
元はみんなアフリカの奥地の家族だった。それが20万年の時を経て、バラバラに様々な文化や文明をつくったが、そしてまた世界が今繋がっている。
その面白さ、それを認識できる私たちの今の認識、それらが素粒子、原子のつながりでできているという訳わからなさ。
縄文時代や循環型社会が正解だと思っている人たちへ、分からないということがこんなにも面白いことなんだという事をどうしたら伝えられるのか、引き続き考えていきたい。
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