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『くちびるリビドー』第15話/3.まだ見ぬ景色の匂いを運ぶ風(3)


 母と暮らしたマンションを出ることに決めたとき、小泉社長(寧旺の父であり子役時代の事務所の社長)は「ここは事務所の寮みたいなものなんだから、ずっと住んでたって構わないよ」と言ってくれたけど、私はもう芸能界を引退している身だったし(それなのに母はここに住み続けていたわけだが)、一人で暮らしていくには広すぎて家賃も高かった。
 つき合いはじめて三年になる恒士朗と同棲することも考えてはみたけれど、まだ母の残像がチラチラしているこの部屋で、彼氏との新生活をはじめるなんて全然イメージできなかった。なにより全部が私の勝手な妄想だったから、恒士朗には相談すらしなかった。
 新しい街、新しい部屋。人生初の一人暮らしをスタートさせる自分を想像することは、思いのほか楽しかった。もともと、生まれ育った家や場所などに執着するようなタイプではなかったのだろう。変化させざるを得なくなった現実を前に、このときの私は不安よりもずっと大きな自由のようなものを感じていた。

 そういうわけで、自分でも驚くほどの潔さとともに引っ越しの決意は固まった。
 住み慣れた2LDKのマンションから、自分だけの小さな城へ。恒士朗を巻き込むようにして新居探しに熱中している間、私は悲しみから解放され、未来を夢想していられた。
 そう。気がつけば犬のように母の不在を嗅ぎ回ろうとしている意識を、そこからできるだけ遠ざけておくために、それは実に効果的な方法だった。
 そして、良質なものに囲まれてシンプルに無駄なく暮らすことを愛していた母のおかげで(彼女は物を溜め込むことを極端に嫌っていたから)、荷物の整理は予想以上にはかどった。
 大切なのは、そんなふうに現実の中で手や頭を動かし続けることだった。

 それから、やはり――恋、だろうか。
 ひとりぼっちになった私には、恒士朗がいた。







くちびるリビドー


湖臣かなた







〜 目 次 〜

1 もしも求めることなく与えられたなら
(1)→(6)

2 トンネルの先が白く光って見えるのは
(1)→(6)

3 まだ見ぬ景色の匂いを運ぶ風
(1)→(8)


3

まだ見ぬ
景色の
匂いを運ぶ風


(3)


 どんなにそれが「母のため」ではなく「自分のため」だったとしても。
 誰かのために自分の時間を丸ごと捧げるようなことを続けていると(意識的にであれ、無自覚にであれ)、徐々に人はどこか「からっぽ」になっていくのだろうか。
 母が入院することになったとき、心とは裏腹に、私の直感は冷静だったと思う。
 どんなに愛情があろうと、自己犠牲の精神でサポートを続けたら、きっとすぐに潰れてしまう。だからもっと自分に主体をおいて、あとになって「しておけば良かったこと」のリストに苦しまぬよう、とにかく「してあげたい」と思うことは全部してあげよう。「母のため」ではなく「自分のため」に、後悔が残らぬように。
 だからママ、安心して私に頼ってね。私は自分の意思でサポートに徹してるんだから、嫌々やってるんじゃないんだから。全部、私がしたくてしてるんだからね。
 そう意図して臨んだ日々だったのに、あんなにも母との甘い蜜月を味わっていたのに、そしてそれを失う恐怖だってあんなにも感じていたのに。
 私の中の天使たちが献身的サポートに明け暮れる片隅で、たった一匹、その悪魔の囁きが夜ごと心の奥底を掻き乱すようになっていった。
「私の人生の大切な時間が奪われていく」「決して報われることなんかないのに、こんなにも必死に尽くしてバカみたい、バカみたい、バカみたい!」「勝手に病気になるんなら、迷惑かけずに勝手に死んでよ!」と、ほかの人には決して聞かせられないような魔の一面を、スポンジみたいに受け止めてくれたのは恒士朗だった。

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“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆