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ドバイ移住1ヶ月目の所感

ドバイに移住して1ヶ月が経ったので、この期間を通じて感じたことについて書き記しておこうと思う。

異文化に住むということ

生まれてずっと日本に生まれてきたので、ドバイでの生活は何もかもが新鮮で新しいものだった。街行く人々の人種も、スーパーの仕様も、定番チョコレートの味も何もかもが違う。
そんな環境に入り込むと「当たり前」など存在しないことに気付かされる。私の当たり前は私以外の誰の当たり前でもないし、彼らの当たり前は私の当たり前ではない。寛大でありたいと思ってきた私にとって、どんな鍛錬よりもここでも生活そのものが効果的だという感覚がある。今後もずっと長くドバイに住んでいたら、きっと今よりもっと寛大な心を、自然と持てるようになるのだと思う。
もう一つ、ワクワクしたこの胸の高鳴りを忘れる前に書き留めたい。街を歩いていたり、モールのカフェにいると、いろいろな言語が飛び交い私の耳を賑わせる。何を言っているのか、どの国、民族の言語なのかは全くわからないのだが、今までで10言語ほどは聞いたと思う。そんな多様な言葉を一つの国で聞ける体験を今までしてこなかった身からすると、なんて世界は多様なんだと、面白くなってくる。それと同時に生きているうちに一つでも多くの単語、一つでも多くの言語を会得したいものだと心から思った。そう思った日の夜、アラビア語を試しに学ぼうとアルファベット表を開いて見たが、開始3秒で眠くなるほど難解で、結局英語の利便性を痛感してしまった。それでも、せめてマルチリンガルの称号を得られるように、もう一つくらいは言語をマスターしたいと思う。

小さな幸せ

ドバイに来て私の幸福度は高まっているように思える。快適な居住地、健康的な生活、没頭できる仕事や趣味、私の周囲にいる面白い人、凄い人がそうさせているのだと思う。
そんな素敵な環境にいるからか、最近は幸せはすぐ近くにあることを意識的に自覚する。その幸せは「感じにいくという外向きの幸せ」ではなくて、「今ある状況をいかに幸せと感じられるかという内向きのそれ」である。
日本にいるときは、幸せとは何かというテーマに対して、常に外向きに矢印を向けていたきらいがある。他人との比較、物神的な嗜好性が嫌というほど自分にまとわりついてきた気がする。かなり意識的に排除できていたと感じていた自分が恥ずかしいほどに、今と比べると日本での幸福の追求は不純だった気がする。
環境が変わり自分自身が変わったことで、どんな些細なことも私自身が幸せであることを丁寧に感じ取れれば、私は幸せなのだということをはっきりと自覚することができるようになった。案外、幸せを感じることは容易である。仰々しいブランド品や一口で終わってしまう高級食材なんかよりも、今自分を生かしてくれる存在について心で丁寧に感じることができれば、幸せな生活は簡単に作り出せるのだと思う。

1ヶ月は一瞬で過ぎ去り、これからもっと新たな出会いや気づきが訪れると思う。そんな一瞬の運と縁がどんな人生を紡いでくれるのか、楽しみであると同時に、自分自身が自分の人生に何を働きかけられるのか、常に考え行動していきたいと思う。

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