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熊本の旅

ムーンライトながらで出発

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。

 今よりも若い頃、春夏冬の長い休みには、青春18きつぷによる旅行が私の定番でした。そして、その青春18きつぷを使つた最後の長距離旅行は、今から七年前になります。この時、快速ムーンライトながら号は臨時列車となつてゐましたが、まだ運行されてゐました。惜しいかな、車両の老朽化と武漢熱禍により、ながらも過去のものとなつてしまひました。
 私にとつて、ムーンライトながら号は青春18きつぷとワンセットでした。

参考 快速ムーンライトながら(185系)

 早速、当時を振り返りませう。今回の旅は熊本県であり、我が家のルーツを訪ねる旅でもありました。

 東京駅を出発したのが二十三時十分。ムーンライトながら号は通勤客を尻目に横浜駅、小田原駅を経て、未明の東海道本線を西に走ります。検札が来るのが、横浜駅を出たあたりだつたでせうか。その後、短い眠りにつくのですが、眠れない夜は、静岡駅や浜松駅の様子を見て、ボーッとしてゐましたが、大抵は熱海駅で眠くなり、名古屋の手前で目が醒めました。
 夜明けの長良川を渡り大垣駅に着くと、ながらとの別れを惜しむ間もなく、定番の大垣ダッシュです。そして米原駅、姫路駅、相生駅、岡山駅、三原駅、糸崎駅、岩国駅、下関駅、小倉駅を乗り換へ乗り換へ、博多駅まで来ました。
 海が見たいので、進行方向の左側の席に座るのも定番でした。山陽本線の明石駅や舞子駅のあたりで最初の海が見えるでせう。明石海峡大橋が美しく、晴れた日は眠気も醒めるほどです。
 途中、姫路駅で中華麺を使つたそばを食べるのも定番ですね。たまに食べたくなります。
 さすがに何時間も列車に乗つてゐたので疲れてしまひ、駅前のホテルですぐに寝ました。

水天宮と真木和泉守

 翌日は博多駅から久留米駅に向かひました。久留米駅から歩いてしばらく行くと、水天宮が鎮座してゐます。東京にも水天宮がありますが、その本社です(有馬の殿様が江戸に分祀しました)。
 壇の浦の戦ひの後、筑後川のほとりのこの地に逃れて来た按察使局伊勢が安徳天皇をお祭りしたのが始まりと伝はつてゐます。

 筑後川 川の辺に坐す この宮に み国憂ひし もののふを見む 可奈子

 水天宮といへば、第二十二代宮司の真木和泉守保臣がただちに思ひ浮かびます。
 平泉澄先生の『先哲を仰ぐ』中の「維新の先達 真木和泉守」によれば、

 凡そ明治維新の偉大なる改革の殆ど全部は真木和泉守の方寸より出て来たものであります。どれを見てもさうであるとさへいつてよい。第一に神武天皇創業の昔に帰れといふのが、真木和泉守の精神でありました。
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』(錦正社) 所収「維新の先達 真木和泉守」

とあり、さらに

 苦難の間にありながら、毎年楠公を祭つてをられます。五月二十五日、楠公の戦死の日になりますと、必ず楠公を祭られ、その神霊をなぐさめられ、その精神を受けて立たんことを期せられたのであります。古来楠公を思慕賛美する人は多いが、しかしながら真木先生の如く、その誠が表はれてをる人はその例少ないと言つてよいのであります。
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』(錦正社) 所収「真木和泉守 楠子論」

とあります。
 つまり、真木和泉守により明治維新の策は巡らされ、さらにその精神は楠木正成公、そして引用箇所には書かれてませんが、菅原道真公によつて培つたのです。私はその点を非常に重要に思つてゐます。以下の「筑紫への旅」にも書いてゐますので、併せてお読みいただければ幸ひです。
 水天宮内には、真木和泉守記念館があり、ありがたいことに見学させていただきました。記念館内には、真木和泉守研究の第一人者である小川常人さんの御著書はもちろん、平泉澄先生の御著書もありました。
 また、数年にわたり幽閉されてゐた水田の山梔窩(くちなしのや)を模したものも境内にあります。さながら萩や世田谷の松陰神社のやうです。
 真木和泉守は山梔窩を脱出後、玉名の松村大成を訪ねます。そして、彼は国事に奔走するのです。そして、天王山にて、

 大山の 峰の巌に 埋めにけり わが年月の 大和魂

と詠み、五十二年の生涯を終へ、帰幽されました。
 私は、水天宮と真木和泉守を祀る真木神社を参拝し、今日、ここに無事に来ることができた神恩に感謝の祈りを捧げました。

人吉

 水天宮を後して、再び鹿児島本線に乗車します。列車を乗り継いで新八代駅で肥薩線に乗り換へ人吉駅まで行きました。
 人吉はわが家のルーツです。駅で待つてゐてくれた親族の車で、まづはわが家の墓所を参拝しました。ちやうど、熊本地震の後だつたので、墓銘碑が倒れてゐました。親族の方で、碑を元に戻せる人はゐないみたいでした。たまたま、ある程度筋トレをしてゐた私は、その碑を自力で直しました。親族の方は、この様子を見て「この日のために、先祖が呼んでくれたのだ」と言つてゐました。私もさう思ひました。目に見えない導きといふもの、冥々の導きとはこのやうに存在するものなのだと実感しました。

 こまのくに わが故郷の 奥津城に しづまる人は われを呼びけり 可奈子

 なほ、平泉澄先生は、

 この冥々の力を感得する事こそ、歴史を真に理解する第一の要件であります。これを感得する能はずして、単に表面的なる事件の羅列に止まつてゐる時、歴史は無意味なる年代記となり、その精神は死滅して了ふのであります。而してこの冥々の力を感得する事は、ひとり歴史を理解するに必要あるばかりでなく、真に教育の意義を理解するに欠くべからざる所であります。
平泉澄先生「歴史を貫く冥々の力」

と述べ、見えないものを見、感じる力の大切を説かれてゐます。

 墓参りの後は、「トトロの森」で知られる雨宮神社や、帝国海軍の人吉飛行場跡、人吉農芸学院(少年院)前などを巡つていただきました。宿は、駅前の旅館あおやぎに泊まりました。温泉もあるのが魅力ですね。熱い温泉ですが、かけ流しでとても良い湯です。お肌がツルツルになります。

 さういへば、人吉といへば、アニメ「夏目友人帳」の舞台になりました。その関係なのでせう。街中にはニャンコ先生がたくさんゐました(ぬひぐるみ)。そして、人吉花火大会のポスターは緑川ゆきさんの書き下ろしで、見事でした。
 いはゆる聖地巡礼をすることもできますので、興味のある方はどうぞ。

夏目友人帳探訪マップ

菊池神社

 翌日は、親族の車で玉名、山鹿、菊池方面に行つてもらひました。
 まづは菊池一族をお祭りする菊池神社を参拝しました。なほ、菊池一族については平泉澄先生の『菊池勤王史』(皇學館大学出版部)が便利ですが、『少年日本史』の「吉野五十七年」でも学ぶことができます。どうか、ご参照ください。私は『少年日本史』を最も価値のある通史だと思つてゐます。

八千代座

 山鹿では八千代座を見学しました。楽屋や奈落まで見せていただきました。坂東玉三郎が毎年ここで公演されてゐることで知られてゐます。風情のある芝居小屋で、一度ここで見てみたいものです。この時、お土産に坂東玉三郎の手拭ひを買ひました。

玉名

松村大成

 玉名では松村大成関係、江田船山古墳、トンカラリンを訪ねました。さういへば、崎門学の西依成齋も玉名出身なんですね。玉名市の歴史博物館こころピアを訪ねた時に知りました。

 この旅では、主に松村大成に関することを調べに行きました。松村大成は平野国臣や真木和泉守同様、九州を代表する勤皇の志士の一人です。弟の永鳥三平と共に国事に奔走しました。三平は吉田松陰先生とも連絡がありました。
 松村大成について、詳しくは「日本」誌に掲載された松村太樹さんの「肥後の勤皇 松村大成」(平成二十七年十二月号)をお読みください。日本の古本屋で購入できます。
 玉名にある梅林八幡宮など、松村大成ゆかりの地を巡りました。

江田船山古墳とトンカラリン

 江田船山古墳はいふまでもなく、鉄刀が出土したことで有名になりました。その鉄刀には七十五文字の銀象嵌銘を持ち、そこには「獲×××鹵大王」とあります。つまり、第二十一代天皇であらされる雄略天皇のことです。稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文にも「獲加多支鹵大王」の記述があることもよく知られてゐますね。この鉄刀の記述によつて、『日本書紀』の裏付けがとれ、少なくとも雄略天皇まではいかなる史学者も認めざるを得なくなつてゐませう。『天皇の歴史』といふあまり面白くない本も、雄略天皇から書き出してゐます。この本は、田中卓先生の説を一切とらず、直木孝次郎などのいはゆる主流派に拠つてゐるので、さうした人々の考へはわかつても国体の本質までは理解できないでせう。

 江田船山古墳自体は小さな古墳です。雄略天皇の宮は初瀬朝倉宮で出土の鉄刀以外に関係はないのですが、次の雄略天皇の御製を誦しました。

 籠もよ み籠もち ふくしもよ みふくしもち 
 この丘に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね
 そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ坐せ
 しきなべて 我こそ坐せ 我こそは告らめ 家をも名をも(一・一)
(籠を、良い籠を持ち、へらも、良いへらを持つて、この丘で若菜を摘んでゐるお嬢さん、家をお言ひ、名をお言ひなさい。この大和の国はことごとく私が治めてをるのだ。私こそ告げやうではないか。家をも名をも)

 なほ、この地で出土した遺物は、東京国立博物館に展示されてゐます。鉄剣も展示されてゐるので、是非一度ご覧になつてください。

 いにしへの ことのは記す 太刀見れば 神代のことも 思はるるかも 可奈子

江田船山古墳
江田船山古墳

 江田船山古墳の近くには、トンカラリンと呼ばれる謎の遺跡があります。誰が、いつ、何のために作つたのかまつたくわかつてゐません。名前の由来も、中に石を投げるとトンカラリンといふ音がするからといふものや、朝鮮語説などさまざまです。しかし、古代のものではなく中世から近世に作られたものと今では解釈されてゐるさうです。

トンカラリン
トンカラリン

 人吉に帰る途中、熊本市内で熊本城の崩れ具合を見ました。地震の脅威を思ひ知らされます。

 おほなゐに 垣は崩れて 荒れにける 城をし見れば かなしかりけり 可奈子

人吉市内巡り

 最終日の朝は青井阿蘇神社を参拝しました。本殿や楼門が国宝に指定されてゐます。創建は大同元年(806)、御祭神はHPによれば、神武天皇の御孫にあたられる健磐龍命、その妃の阿蘇津媛命、御二人の御子の國造速甕玉命の三柱の神々です。
 立派な社殿に感服しました。

 神さぶる 阿蘇の社に 手向けして 我が行く先の 真幸くありこそ 可奈子

青井阿蘇神社楼門
青井阿蘇神社由緒

 参拝の後、幽霊寺として知られる永国寺の前を通り、人吉城址に行きました。ここには相良護国神社が鎮座してゐます。寂れてしまつてゐます。一人でも多くの方が参拝され、歴史の真実に触れてほしいと願つてゐます。

 人吉城は相良氏の居城です。相良氏が地頭として赴任して以来、三十五代約六百七十年の長きにわたりここを拠点としました。「繊月」城と呼ばれ、「武者返し」といふ独特の石垣を有してゐます。なんだか、球磨焼酎の銘柄みたいですが、これに由来するのはいふまでもありません。

人吉城と球磨川
人吉温泉元湯

 最後に、元湯温泉に入りました。ここは柔らかい湯で、誰でも入れる優しいお湯です。炭酸も含まれてゐるのでせうか。入ると身体に泡が付きます。以前は、湯口にコップが置いてあり飲むこともできましたが、今回来た時は置いてありませんでした。

 元湯を後にして、人吉駅に帰り肥薩線に乗りました。乗る前に、人吉駅弁やまぐちの鮎すしを買ひました。栗めしも美味しいのですが、私は鮎すしが好みです。駅弁のお寿司系は酢が強くて食べ辛いのですが、鮎すしはそこまで酢が効いてゐないので食べやすいです。

 ここからまたひたすら鉄道旅です。途中駅でSL人吉号と、ななつ星を見ることができました。青春18きつぷ旅行は、行きは楽しいのですが、帰りが大変といふ印象をいまだに拭へません。十五年くらゐ前の九州旅行の帰りに、途中から東京駅まで新幹線に乗つたことを今でも覚えてゐます。
 乗り継ぎに乗り継ぎを重ね、広島の西条駅まで行き、ここから青春ドリーム大阪京都2号に乗つて大阪駅まで行きました(ムーンライト九州やムーンライト山陽があれば、もう少し早く、かつ効率的に行けたのですが、わがままは言へません)。

参考 青春ドリーム大阪京都2号

付録 藤樹書院

 夜行バスを降り、大阪駅から再び鉄道です。東海道線、湖西線を乗り継ぎました。車窓には琵琶湖が朝日に照らされキラキラとしてゐます。
 目的の安曇川駅まで来ました。駅からしばらく歩くと、近江聖人と呼ばれた中江藤樹の藤樹書院に至ります。お世話になつてゐる茨城県のFさんから一度行くと良いと言はれ訪ねました。藤樹書院はいふまでもなく、中江藤樹の私塾です。

 さういへば、高島は中江藤樹も有名ですが、『靖献遺言』を著した浅見絅斎先生の生まれた地でもあります。絅斎先生も偉大ですが、中江藤樹もまた国史上忘れてはならない人物の一人だと思ひます。絅斎先生は忠を重んじ、藤樹は孝に生きた。私の先輩は藤樹を「腰抜け」といつて酷評してゐましたが、言ひ過ぎのやうな気がします。藤樹は藤樹なりに高島の人を感化し、立派に生きた人物だと思ひます。

 この辺りも万葉に詠まれた地であり、『万葉集』には次の歌が残されてゐます。

 高島の 阿渡川波は 騒けども 我れは家思ふ 宿り悲しみ (巻九・一六九〇)
 (高島の安曇川の川波は騒ぐけれども、私は家を思ふ旅の一人寝が悲しくて)

 「柿本人麻呂歌集」の歌です。さういへば、近江の琵琶湖周辺は歌枕がたくさんありますね。機会があれば巡つてみたいものです。
 藤樹書院を後にして、再び安曇川駅から湖西線の客となりました。少し北の近江塩津駅を経て、米原駅、大垣駅、豊橋駅、浜松駅、熱海駅を経て東京に帰りました。

 さて、人吉ですが、折りから水害により、多大な損害を被つてゐます。幸ひ親族の方は無事ですが、私の知り合ひの方は実家がなくなつてしまつたといひ、さらには肥薩線も運休中など、災害の爪痕は深く、いまだに復興の途中です。
 一日も早い復興をただただ願ふばかりです。

 しきしまの 大和の国は 言霊の たすくる国ぞ 真幸くありこそ (柿本人麻呂歌集)

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。感謝。

 ひのくにの わがふるさとを ふみにしるし なつかしき旅を 読む人やたれ 可奈子

 最後に、宣伝になつて恐縮ですが、「維新と興亜」第十四号(令和四年八月二十八日発売)に、「大伴家持の美意識と苦悩 余話」を書かせていただきました。関係者の皆様には、心から感謝申し上げます。どうか、お手にとつていただければ幸甚です。
 今回は、『万葉集』の本質に関はるやうなことも書かせていただきました。拙稿以外にも興味深い記事がたくさんありますので、是非ともよろしくお願ひいたします。

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