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筑紫の旅

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。皆さんが目を通してくださること、スキを付けていただけることがささやかな励みになつてをります。今回も、どうか最後までお付き合ひください。
 令和三年七月半ば頃、ちやうど一年前に九州の福岡県を旅しました。その時のことを思ひ出して書きました。記憶が曖昧なところがあるのを遺憾とします。
 また間違つたことを書かないやう、細心の注意を払つてをりますが、それでも非力ゆゑ如何ともし難い点もありませう。ご寛恕願ひます。

1、旅のはじまり

 万葉時代、筑紫、すなはち九州への旅は船旅が目立ちます。今でこそ風光明媚な瀬戸内ですが、当時は海といへば恐怖、潮の流れや時つ風(順風)、さうした変化に対する怖さの感情が過分にありませう。
 筑紫を目指した柿本人麻呂は、

 大皇の 遠の朝廷と あり通う 島門を見れば 神代し思ほゆ (巻三・三〇四)
 (天皇の遠い朝廷として都人たちが通ひ続けるこの海路の島門を見れば神代のいにしへが思はれる)

と神代にさかのぼり、雄大に歌ひました。そこには何か大きな使命感のやうなものが感じられませう。また、新羅に派遣された人たちには、

 沖つ風 いたく吹きせば 吾妹子が 嘆きの霧に 飽かましものを (巻十五・三六一六)
 (沖からの風が強く吹いたら、私の大切な妻のため息の霧に触れられるのに)

と歌ひ、故郷の妻を思ひ、旅の辛さを闇に述べてゐました。人麻呂にしても、遣新羅使人にしても、恐怖心が少なからずあつたではないか、そのやうなことを旅の前に考へてゐました。船旅も悪くない。しかし、現代では船旅は時間がかかり過ぎるので、珍しく飛行機に乗りました。羽田空港から福岡空港は「アツ」といふ間でした。さすがに新幹線と比べたら、飛行機は圧倒的に早いですね。
 また、空から見る富士山は不思議な感じがします。


 富士の嶺を 高み畏み 天雲も い行きはばかり たなびくものを (巻三・三二一)
 (富士山の高さにおそれ畏んで、天雲もはばかつて空をたなびいてゐる)

と高橋虫麻呂は歌ひましたが、その天雲よりも上から富士山を見るとは、万葉時代の誰がそのやうなことを想像したでせう。

 ちはやぶる 神代しおもほゆ このしまとを みればたのしも そらの上より 可奈子

空から見る富士山

 空から海の中道と、山上憶良の志賀の海人の歌で知られる志賀島(「漢委奴国王」の金印の方が有名でせうか)が見えると、福岡空港はもうすぐです。
 なほ、福岡空港は、環濠集落と水田跡で知られる板付遺跡の近くです。着陸し、空港の外に出れば、くまぜみが「シヤアシヤア」と鳴いてゐました。

 しらぬひ つくしのしまに くまぜみの さわくをきけば あきはきにけり 可奈子

2、旅人を思ふ

 筑紫の旅の初日であるこの日は、生憎の雨でした。雨の中、太宰府を歩き回るのは嫌だつたので、翌日に予定してゐた西鉄全線と甘木鉄道、そして福岡の地下鉄に完乗をする日程を前倒ししました。ひたすら電車に乗つてゐたので、特筆すべきことがないのですが、乗りながら考へてゐたことを書きます。主に、大伴旅人のことを考へてゐました。

 西鉄香椎駅のあたりでは、大伴旅人が詠んだ、

 いざ子ども 香椎の潟に 白妙の 袖さへ濡れて 朝菜摘みてむ (巻六・九五七)
 (サア皆さん、香椎の干潟で白妙の袖を濡らして朝の菜を摘みませう)

の歌を想像しました。今では、香椎潟の名残を想像するのみです。この時、小野老も、

 時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな (巻六・九五八)
 (風が吹きさうになつてゐませう。香椎の潟の潮干の浦に玉藻を早く刈りたいものです)

と続きました。

 西鉄久留米駅は、真木和泉守保臣が神主をつとめた水天宮の最寄り駅です。
 平泉澄先生は真木和泉守を『先哲を仰ぐ』中の「神道の本質」で端的に次のやうに評されます。

 これほど高邁なる見識を持ち、これほど剛毅なる精神を以て国家の大事に当つた人は、ほかに類がありません。何とも言へぬ人物です。この人と大西郷といふものがなかつたならば、おさ(ママ、著者注、そ)らく明治維新といふものはできなかつたと思ひます。長州を動かしたのは真木和泉守、薩摩を動かしたのは大西郷、この二人が有つてはじめて薩長の奮起をうながし、薩長を指導して、明治維新ができたと言つてよい。
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』錦正社 所収「神道の本質」

 水天宮は、今から八年くらゐ前。私が某女子校に勤めてゐた時の夏に参拝させていただきました。お祭りの準備でお忙しい中、記念館も見学させていただきました。実にありがたいことでした。真木和泉守研究の第一人者である小川常人さんの御著書はもちろん、平泉澄先生の御著書もありました。
 この旅の時に、熊本県の玉名に松村大成に関することを調べに行きました。松村大成と真木和泉守に連絡があり、水田を脱出した際、最初に尋ねたのが玉名の松村大成のところでした。なほ、松村大成は平野国臣や真木和泉守同様、九州を代表する勤皇の志士の一人です。詳しくは「日本」に掲載された松村太樹さんの「肥後の勤皇 松村大成」(平成二十七年十二月号)をどうぞ。日本の古本屋で購入できます。


 二日市温泉にも行きました。博多湯といふ浴場で、一時間程入りました。

二日市温泉 博多湯
二日市温泉の効能

 透明の湯ですが、ほのかに硫黄のかをりがします。ぬるいので、長く入つてゐられました。なほ、二日市温泉は次田の湯として『万葉集』に出てきます。この地で、大伴旅人は

 湯の原に 鳴く葦鶴は 我がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く (巻六・九六一)
 (次田の湯の原に鳴く鶴は、私のやうに妻を恋ひしがつて、何度も鳴くのでせうか)

と歌ひました。ここでいふ妹は、大宰帥となつて筑紫に赴任して後に亡くした妻をさしてゐることはいふまでもありません。
 旅人は、備後の鞆の浦でも妻を偲んで歌を詠み、都に帰つてからも、

 吾妹子が 植ゑし梅の木 見るごとに こころ咽せつつ 涙し流る (巻三・四五三)
 (妻が植ゑた梅の木を見るたびに、心もむせかへるばかりに涙があふれてくることだ)

と歌ひ、妻の死を悲しんだのでした。旅人の妻は、こんなにも愛されたのです。
 旅人は決して、


 しるしなき ものを思はずは ひとつきの 濁れる酒を 飲むべくあるらし (巻三・三三八)
 (意味のない物思ひなどせず、一杯のどぶろくを呑んだ方が良いらしいよ)

と歌ひ、酒に心を寄せるだけの人ではなかつたのです。とても情の深く、優しい、風流士(みやびを)だつたのです。その旅人も、天平三年(731)七月二十五日に亡くなります。
 その死に際して、使人であつた余明軍は、


 かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも (巻三・四五五)
 (このやうになるのが運命であつたのに、萩の花の咲き具合を気にされてをられたあなたよ)

と歌ひ、悲しみました。旅人は、死期が近づいてゐる時にあつても、萩の花に心を寄せる情の人だつたのです。
 『維新と興亜』に書かせていただいてゐる「いにしへのうたびと」で山上憶良を情の人としました。『万葉集』にしても和歌(やまとうた)にしても、情がなくては理解できません。情が深ければ深いほど、歌人たちの理解は深くなる、さう考へてゐます。分析は死です。彼らの情に入つて行つてこそ、生となるのです。
 鞆の浦での旅人の歌については、拙稿「瀬戸内の旅」を併せてお読みください。

 一日中、電車に乗り続けました。さすがに乗りつ放しは疲れます。二日市温泉を上がり、博多に帰つてからすぐにスーパーホテルにチェックインするのではなく、迷はず屋台に行きました。以前来た時よりも屋台は減りましたが、この雰囲気は何ともいへず良いですね。
 今回、食べた屋台は忠助といふところでした。お腹いつぱい食べて三千円程度でした。次回は、一人ではなく、恋人と来たいと思つて、一人床に臥しました。

もやし炒め 450
ラーメン 580
餃子 450

3、太宰府の万葉

 二日目は無事に晴れました。早朝にホテルを出て、博多駅のバスターミナルから水城を目指します。水城は、白村江の戦ひの後、唐の襲来に備へて天智天皇三年(664)に太宰府防衛のために築いたものです。

水城跡
水城跡
水城跡
水城跡
大伴旅人歌碑 仮名遣ひ「うへ」が「うえ」になつてゐるのが残念ですが、達筆です。

 水城といへば、大伴旅人の次の歌が知られてゐませう。

 ますらをと 思へる我や 水茎の 水城の上に 涙拭はむ (巻六・九六八)
 (立派な男子と思つてゐた私であつたが、水城の上で涙を拭かうか)

遊行女婦児島に送つた歌です。

 水茎の 水城の上に 涙のごふ ますらたけをし 思ほゆるかも 可奈子

 水城からしばらく歩きます。目の前には、これも『万葉集』に詠まれた大野山が見えてきます。

 大野山 霧立ちわたる わが嘆く 息嘯の風に 霧立ちわたる (巻五・七九九)
 (大野山に霧が立ちこめる。私のため息によつて、霧が立ちこめる)

 これは、山上憶良が、妻を亡くし悲しむ大伴旅人に送つた歌です。

 おほのやま 霧たちわたる わぎもこの おきそのかぜと ありたきものを 可奈子

山上憶良歌碑

 嘆きとはため息のことで、ため息は霧になると当時は考へられてゐました。
 神亀五年(728)七月二十一日、筑前守であつて山上憶良が妻を亡くし、悲しみに暮れる大伴旅人に上つた歌(日本挽歌の反歌)です。旅人は当時、


 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり (巻五・七九三)

 このやうに歌ひ、悲しみの真つ只中にゐました。時は神亀五年六月二十三日です。そして坂本八幡宮に到着しました。ここはかつて大伴旅人の館跡と考へられてゐましたが、今では否定されてゐます。小さな神社ですが、新元号令和に関連してにはかに有名になりました。境内には「令和」の碑も立つてゐます。

 なほ、新元号令和の由来について、私にしきしまの道を指導して下さる松村太樹さんが「日本」に「令和の由来を考える」を発表されました。典拠である『万葉集』に基づく解説を多くの言論誌に先立ちなされました。今なほ、たくさんの方にお読みいただきたい内容です。私も参考にさせていただき、「日本」に「万葉集古義に学ぶ 五」を執筆しました。

 天平二年正月十三日、梅花の歌三十二首がつくられました。「初春の令月にして、気淑く風和」ぐと書かれた序文は、すでに多くの国民が知るところとなつたでせう。

 わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも (巻五・八二二)
 (わが庭に梅の花が散る。空から雪が流れて来るよ)

と旅人は詠んだ地は、何処と定め難いものがありますが、太宰府のどこかでせう。

坂本八幡宮
坂本八幡宮
坂本八幡宮

 坂本八幡宮のすぐ目の前には太宰府政庁跡(都府楼跡)です。背後には大野山。よく晴れて、清々しい一日です。

 ひさかたの あめよりつたふ このゆきは みればみるほど うめににたるかも 可奈子

都府楼跡碑
都府楼跡

4、太宰府天満宮と菅公

 大宰府政庁から観世音寺を参拝し、さらに天満宮へ歩いて行きました。『君の膵臓をたべたい』といふ小説を、かつて勤めてゐた学校の生徒に薦められて読みましたが、太宰府と思しき場所の記述があつたのを何となく思ひ出しました。しかし、私にとつてはそれよりも大切なことがあります。太宰府天満宮の御祭神である菅原道真公は、私の憧れでした。小学校の卒業アルバム中の「20年後の自分」欄に、僭越にも「菅原道真になる」などと書いてゐた程でした。遠く、遠く、及びませんが。

 その菅原道真公を平泉澄先生は『先哲を仰ぐ』中の「至純の忠誠」で次のやうに評されてゐます。

 人を理解し、批評するといふのであれば、それは必ずやその本質に於いてしなければならないのであります。しからば(菅原道真)公の偉大なる徳は、いづれの点にあるか、公の本質として何を考ふるべきかといふに、その徳は実に至純の忠誠にあり、公の本質は実にその忠臣たる所に存するのであります。
 此の忠誠の最も美しく発露して居りますのは、公の晩年、讒言にあつて、太宰府に流されるといふ、思ひもよらぬ不幸に遭遇された時であります。(中略)
 事実は、公の(太宰)権帥といふのは、ただ名ばかりの事であつて、実権もなければ、実務も執られず、同時にその待遇も無かつたのであります。公の住まれたのは、太宰府の郊外にある浄妙院といふ寺でありますが、公はこの寺にひきこもつたまま、閉門謹慎して、決して外出はされなかつたのであります。(中略)
 かやうに悲惨な境遇に落ち、かかる憂悶にとざされましては、大抵の人でありますならば、不平となり、不満となり、憤激となり、怨恨となり易いものであります。しかるに驚くべきは事には、公には悲あつて不平不満なく、憂あつて而して憤激怨恨は存しないのであります。ただに不平不満なく憤激怨恨なしといふのではありません。却つて益々感恩と思慕の誠を捧げて、遥かに京都を拝して居られるのであります。彼の九月十日の詩に、
 去年の今夜清涼に侍す、
 秋思の詩篇ひとり断腸、
 恩賜の御衣今ここに在り、
 捧持して毎日余香を拝す、
とあるもの、実に之を證して余りあるのであります。
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』錦正社 所収「至純の忠誠」

そして、同じく、「神道の本質」では、

 どういふ罪があつたのかといふにつきまして、私は、あくまで無罪であるといふことを確信いたします。

 最後まで、お上の御恩を感謝し、お上の御安泰を祈るといふのは、神道の極致といふべきであります。消極的といへば消極的であります。しかし、あんなときに、何が積極的なことがなされませう。これを思ひますと、菅公といふお方は、実に偉いお方といはなければならぬ。

平泉澄先生『先哲を仰ぐ』錦正社 所収「神道の本質」

 私は中学生の頃、菅原道真公のすごいところは、「去年の今夜清涼に侍す」の詩にあると考へてゐました。それが偶然にも平泉先生と一致してをり、驚きと共に嬉しく思ひました。

 おさなき日 君のいさをに つづかむと 学びの道を 志すかも 可奈子

太宰府天満宮由緒
太宰府天満宮

 太宰府天満宮を参拝し、近くにある九州国立博物館へ行きました。博物館を見学し、大宰府駅前からバスに乗り、博多駅に帰りました。そして、ここから地下鉄で筥崎宮へ向かひます。

5、旅の終はりに

 箱崎駅を降りて、少し歩けば、着きます。御祭神は応神天皇です。宇佐八幡宮、石清水八幡宮と並び日本三大八幡宮と称されます。
 筥崎宮といへば元寇です。そして、元寇といへば永井建子の作詞作曲による「元寇」です。境内で思はずくちずさみました。

四百余州を挙る 十万余騎の敵
国難此処に見る 弘安四年夏の頃
何んぞ怖れん我れに 鎌倉男児在り
正義武断の名 一喝して世に示す

多々良浜辺の戎夷 其は何蒙古勢
傲慢無礼者 倶に天を戴かず
いでや進みて忠義に 鍛へし我が腕
此処ぞ国の為 日本刀を試しみん

心筑紫の海に 浪押し分けてゆく
益荒男猛夫の身 仇を討ち帰らずば
死して護国の鬼と 誓ひし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂潔し

天は怒りて海は 逆巻く大浪に
国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るは唯三人
何時しか雲晴れて 玄界灘月清し 
元寇

 大正天皇も歌はれたことで知られてゐますし、小学生時代に多くの同世代の人が読まれたでありませう究極の反米漫画「はだしのゲン」で「八百八州の乞食 ざる門に立ち〜」は元寇の替へ歌です。おすすめは、サムライメタルで知られるZenithrashが歌つてゐるバージョンです。賛否両論ありさうですが。とにかく、私はこれが良いです。

 「元寇」の歌は元気が出ます。筥崎宮にも、この「元寇」の碑が建つてゐますね。
 そして、「敵国降伏」の勅額が素敵です。

筥崎宮
筥崎宮
筥崎宮由来
敵国降伏

 再び二日市で温泉に入り、バスターミナルの牧のうどんでお腹いつぱいになるまでうどんを食べました。うどんといへば香川県を多くの方は想像されるでせう。実は、福岡県もうどん県なのです。牧のうどん以外にもうどんウェストや資さんうどんが知られてゐます。

 福岡空港は博多駅に近くて便利です。地下鉄に乗りすぐに着きます。羽田行きの飛行機で東京に帰りました。明日から仕事と思ふと、気が滅入りますね。
 今回は慌ただしい旅でしたが、筑紫の万葉故地や菅公ゆかりの地を訪ねることができて満足です。次に九州に行くときは、長崎新幹線の開業以降になりませう。

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。感謝。

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