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瀬戸内の旅

寒過ぎたオリオンバス

 この記事に目をとどめていただき、ありがたうございます。どこかで、誰かが見てゐてくれると信じ、今回も筆を執りました。どうか、最後までお付き合ひください。
 ある年の某月某日、瀬戸内の万葉故地訪問と、未乗私鉄路線に乗らうと思ひ、旅に出ました。
 旅のはじまりは、不本意ながらオリオンツアーの格安バスです。何故、不本意かといふと、乗りたかつたサンライズ出雲・瀬戸号のノビノビ座席(または個室ソロ)が満席で、明朝六時半までに岡山駅前に到着できるのがこのバスしかなかつたからです。それにバスはクーラーが効き過ぎてゐること、よく眠れるかが不安でした。ただし、値段は3,000円です。これは安い。安さに釣られて妥協しました。車内は四列席ですが、隣に人もなく広々使へました。ただし、前は狭いです。足が長い人には苦しいでせう。

 そして困つたことに、思つてゐた以上に車内が寒い。とても、寒い。いや、もしかしたらさう感じてゐるのは私だけかも知れません。私は長袖のカーディガンを羽織り、さらに首にタオルを巻いてゐましたが、他の乗客は軒並み半袖・半ズボンでした。私と同じギョサンを履いた女性客もゐましたが、クーラーなどどこ吹く風でスヤスヤと寝てをられました。
 「さ、さむい…」
 私はこの寒さで宝塚のSAまでまつたく眠れませんでした。宝塚SAで、暖かいバニラ・ラテを買ひ、対策をしましたが焼石に水、ブリザードマンにマヒャドとでもいひませうか、車内が寒過ぎてそれほど効果がありませんでした。その後、なんとか一時間程度は寝たと思ひます。定刻に岡山駅前に着いた頃にはただでさへ弱い私の自律神経はボロボロになつてゐました。

宝塚SA

乗り潰し旅

 頭は痛い、ダルい、太陽がカンカンに照つてゐてシャツがチリチリしてゐるのに汗が出ない、こりやあ不味いと思つたものの、このまま帰るのもアホらしい。
 「やれるだけやつてみませう」
 さう決めて岡山電軌を完乗しました。思考が働いてゐないのか、見所を見つけられず、手元の覚え書にも何も書かれてゐませんでした。

岡電
岡電
岡電

 岡電完乗は一時間程度で達成しました。次に、岡山駅から倉敷駅に移動しました。久し振りの山陽本線です。学生時代、青春18きつぷで姫路駅から岡山駅に行くのは本数が少なく大変だつたことを思ひ出します。たまにこの区間だけ新幹線に乗るといふ裏技を使つたこともあります。岡山駅に着いてから、下関駅行きの山陽シティライナーといふ超長距離列車に乗つて西を目指したものでした。今は細切れになつてしまひ、糸崎駅や徳山駅で乗り換へが必要になりました。

 倉敷駅に着きました。北口にはかつてチボリ公園があり、南口には倉敷美観地区があります。大学の同級生のOに案内してもらつたことがあり、懐かしいものです。そして、古くは快速珍ドコ列車といふ珍妙な名の列車が岩国駅から倉敷駅まで走つてゐました。JR西日本広島支社にある客車を適当?につないで編成された列車で、マニア心をくすぐりますが、今回の目的はそこではなく水島臨海鉄道への乗車です。

水島臨海鉄道
水島臨海鉄道

 倉敷駅南口を出て、少し歩いた路地裏のやうなところに倉敷市駅があります。ここから、三菱自工前駅まで水島臨海鉄道に乗車します。途中、工場などが多いせいか飲み屋や大きなビジネスホテルが目に付きます。倉敷工業高校の硬式野球部のグラウンドを見た時は、甲子園に出たことがない私立高校のグラウンドよりも設備が整つてゐることに驚きました。さすがは強豪校。予算が付いてかうなつてゐるのでせうか。水島駅で私以外の乗客が降りました。
 終着駅の、三菱自工前駅で降りたのは私だけでした。工場地域の終着駅、なんだか海芝浦駅みたいな感じがしますが、海は近くありません。少し歩けばありますが、歩く元気もなく、水を飲みクマゼミの声を聞いてホームのベンチに腰掛けてをりました。
 「あーしんど…」
 折り返し列車で倉敷市駅に戻りました。ここで少し余裕があつたので、特急やくも号や黄色一色にされて予算をケチられた普通列車の写真を撮りました。

特急やくも号
黄色一色の普通列車

 次の目的は倉敷駅から清音駅に行き、そこから井原鉄道(第三セクター)に乗ります。清音駅で列車を待つてゐると、来ました来ました。アレ、これはもしかしてキハ120系。心躍る思ひでしたが、似て非なるものでした。しかし、私は好きです。IRT355形といふさうです。

井原鉄道
井原鉄道
井原鉄道の車窓
吉備真備駅

 途中、吉備真備駅はこのやうなところでした。のんびりした田園風景を楽しみながら、神辺駅に着き、福塩線で福山駅に行きます。乗り換へ時間はわづか十分。福山城を見る暇もなくバス停へ急ぎます。

鞆の浦

 無事にバスに乗りました。私は路線バスに乗る際はいつも一番後ろと決めてますが、相変はらずの定位置に座れました。出発間際に、二人の若い女性が隣に来て、恐らく盛つてゐるであらう写メを撮つてました。私は目的地を思ひ、それどころではありませんでした。もちろん疲れてゐるのもありますが。
 三十分ほどで目的地である鞆の浦に着きました。ここは室町幕府第十五代将軍の足利義昭が織田信長に京都を追はれ、しぶとく幕府を置いてゐたことで知られ(鞆の浦は逆賊・足利高氏が光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けたといふ地縁があります)…といふのは余り興味がありません。
 それよりも鞆の浦といへば、私はただちに大伴旅人を思ひ浮かべます。彼は太宰府で最愛の妻を失ひました。そして、妻の死を悲しんで、いくつもの歌を歌ひました。以前書きました「筑紫への旅」も参考になさつてください。

 天平二年(730)の冬の十二月に、大伴旅人が太宰府から都に上るとき、鞆の浦を過ぎし日に作つた歌です。

 吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人そなき (巻三・四四六)
 (我が最愛の妻が見た鞆の浦のむろの木は、永遠に長く命を保つてゐるのに、見た妻はこの世にはゐない)

 鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相ひ見し妹は 忘らえめやも (巻三・四四七)
 (鞆の浦の磯に生えたむろの木を見るたびに、一緒に見た最愛の妻のことを忘れることはないだらう)

 磯の上の 根はふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか (巻三・四四八)
 (磯に根をはるむろの木よ。お前を見た人をどこに行つたと聞いたら、語つてくれるか)

 敏馬の崎でも旅人は妻を悲しんで歌ふのでした。そして、故郷の奈良に帰り、妻を想ひ次の歌を作りました。

 人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり (巻三・四五一)
 (妻のない空しい家は、旅以上に苦しいものよ)

 妹として 二人作りし わが山斎(しま)は 木高く茂く なりにけるかも (巻三・四五二)
 (妻と二人で作つたわが庭の庭園は、木々が茂つてきたことよ)

 吾妹子が 植ゑし梅の木 見るごとに 心むせつつ 涙し流る (巻三・四五三)
 (最愛の妻が植えた梅の木を見るたびに、心もむせ返るばかりに涙が流れる)

 旅人の歌を思ひ、彼の心の中に分け入つてみたら、自然と涙があふれてきました。

鞆の浦観光マップ
大伴旅人歌碑
鞆の浦
鞆の浦

 旅人のこれらの歌は、ただただ涙を誘ひます。ここまで人を大切に思へる大伴旅人といふ人は、本当に本当に素敵な人です。私も願はくば、大切な人から亡くなつた後もこのやうに思はれたいものです。ただ、大切な人には長く悲しんでほしくないので、むしろ大切な人が亡くなつた翌日まで生きることができれば本望です。

 背の君と 携へて見し 鞆の浦の 磯のむろの木 忘れかねつも 可奈子

 我が命し 真幸くあらば 鞆の浦に 寄する白波 また来ても見む 可奈子

 鞆の浦に 雨な降りそね 旅人の 慰めにする 磯を見むため 可奈子

 再びバスに乗り福山駅に戻りました。次は山陽本線で尾道駅に向かひます。尾道駅はとても良い駅ですが、歩き回る体力もなく、セブンイレブンでチョコレートを買ひ次の列車を待ちました。何年も昔の話ですが、映画「男たちの大和」のセットを見に行つたこともありました。

尾道駅
etSETOra号

風早の浦

 尾道駅から観光列車etSETOra号に乗ります。全席グリーン車で、ちやうど海側の席を確保してゐました。しばらく走ると、糸崎駅に着きます。この辺りも万葉の故地です。

車内
車窓

 瀬戸の海の感じは日本海のそれとはまた違う趣があります。日本海が荒涼の美なら、瀬戸の海は清新の美といふ感じがします。日本海の美は、朴訥で力強く、瀬戸内の美は、起伏に富みつつ穏やかな印象です。私はどちらも好きです。列車は呉線における瀬戸内の美を私どもに教へてくれます。途中、忠海駅周辺では徐行運転をしてくれて、陽に照らされた海が輝いてゐるのを堪能させてくれます。

車窓
車窓
車窓

 この路線の最大の目的地は風早駅です。駅の目の前は海であり、ここは風早の浦と呼ばれました。そこは、天平八年(736)に新羅に派遣された使人たちにより歌に詠まれた地です。彼ら遣新羅使は『日本書紀』などによれば、天智天皇七年(668)の道守麻呂の派遣に始まり、承和三年(836)まで計二十七回行はれました。
 この時、新羅に遣はされた人たちは六月に難波から出発しました。出発の時、彼らの妻の一人は、

 君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾がたち嘆く 息と知りませ (巻十五・三五八〇)
 (あなたが旅の途中、海辺に宿る時に霧が立つたならば、私のため息だと思つてください)

と歌ひました。「たち嘆く息」とはため息のことであり、当時はため息が霧になると信じられてゐました。
 彼らは苦労して風早までたどり着きました。この時使人の一人は次のやうに歌ひました。

 我がゆゑに 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり (巻十五・三六一五)
 (私のことを思つて妻がため息をついてゐるらしい。風早の浦の沖に霧がたなびいてゐる)

 この時、もしかしたら霧は立つてゐなかつたかも知れませんし、もちろん立つてゐたかも知れません。彼は遠く都に置いてきた妻も片時も忘れず、この風早の地から妻に答えたのです。

 風早の 浦の沖辺に 背の君が 立ち嘆くらむ 霧立ちわたる 可奈子

風早駅
風早の浦

松山

 etSETOra号の車内もなかなか寒く、呉駅に着いた時にはブルブルと震へてしまふ状態でした。フェリーに乗る前までに少し時間があつたので、やまとミュージアムに行かうと思つてゐましたが、変更して駅近くの大和温泉といふスパに短時間ですが入りました。サウナとお風呂で身体を可能な限り温めましたが、余計ダルくなつてしまひました。

フェリーターミナル

 松山行きのフェリーではずつと横になつてました。なほ、呉市の元市長である小村和年さんは大変立派な方で、かういふ政治家こそわが国に必要な方だとつくづく思ひます。

 呉の海 船にはためく 日の御旗 御稜威輝く 時よ今こそ 可奈子

 フェリーは定刻に松山観光港に着きました。高浜駅まで歩く予定でしたが、その気力もなく、リムジンバスに乗りホテルの近くまで行きました。チェックイン後、部屋に着くなりそのまま夢の世界です(クーラーはつけてません)。そして、だいぶ魘されました。
 朝起きても、体調は変はらず、松山市電や土佐くろしお鉄道、琴電などへの乗車は諦めて帰宅することにしました。ギリギリまでホテルで休み、タクシーで松山駅まで行きました。

特急しおかぜ

 特急しおかぜ号に乗りました。しばらく行くと堀江駅ですが、このあたりはいにしへの熟田津だといはれてゐます。斉明天皇七年(六六一)正月、新羅を討ちたまはむとして九州へ行幸される途中、伊予国の石湯(道後温泉)の行宮にて静養されました。御出発は三月の後半。その時、松山市郊外の海岸で天皇にお代はりになり額田王が次の歌を詠みました。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな (巻一・八)
 (熟田津から船出をしようと月の出を待つてゐると、待ち望んでゐたとほり、月も出て、潮の流れも良い具合になつた。サア今こそ漕ぎ出さうぞ)

 この歌を聴いた皇御軍の歓声が聞こえるやうな心地がします。まさに王者の調べです。『万葉集』中、屈指の名歌と知られてゐる歌です。識者の中には、額田王をシャーマン的な存在のやうに解釈する人もゐますが、なんとなくわかる気もします。ただ、真実はわかりません。

堀江あたりの海(熟田津か)

 特急しおかぜ号を今治駅で降り、ここからしまなみライナー(バス)に乗りました。車内メロディーは「瀬戸の花嫁」です。
 「瀬戸ワンタン、日暮れ天丼、夕波小波そラーメン…」
 途中で寝てしまひましたが、生まれてはじめてしまなみ海道に来ました。

しまなみライナーの眺め
しまなみライナーの眺め

 福山駅からのぞみに乗つて東京まで帰りました。
 今回の旅の反省点として、自分の体の弱さと年齢とを鑑み、今後は夜行バスの利用はやめることにします。

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。

 船に乗り にぎたつに来し 月満ちて 潮もかなひし 古へ思ほゆ 可奈子

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