「遅いインターネット」を考える
新国立競技場。
こんなものは壊れてしまえばいいのに。
オリンピック破壊計画から始まる「遅いインターネット」。
読んでいる最中、それはまさに、見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じる「大衆」による、行き過ぎた政治批判や誹謗中傷による死者が出るような日本が存在していた。
ちょっと震えた、この現実とのリンクに。
私には少し難しくて、、、
掴めそうで掴めない、でもニュアンスは理解できて、ただ、それを再言語化することができない。
人々は、「読む前に書き始めてしまった」という件があったように、自分の言葉で書くということができないのは「読んで」いないのからかもしれない。
よって、うまく感想がかけない、もどかしさ。
民主主義を半分諦めることで守る。という悲しみにも似た気持ちは、今自分でコミュニティを作っているからこそ理解できる部分もある。
自分もしかり、人は皆、気軽に書きすぎているし、信じたいものを都合よく信じてしまうし、早いインターネットで愚かにもただ目の前のことをみて流れているだけにすぎないんだろう。
読めば読むほど現代社会が恐ろしくなる。
と、同時に、「遅いインターネット」を意識してみることで未来も作れるのかも思うと自分でも何かやれないか?と。
コミュニティと学びという点では、自分も小さいながら試しているところなので、そこでは早すぎるネット社会からの距離感を気にしてみたい。
結論はなく、モヤモヤとしながらでも共に考えて行こうというのがこの本の主旨だ。
自分でも今結論が出ない、そして、明言できることもない。
だけど私は、タイムラインに思想や行動を支配されている現実を俯瞰することで見つめ直し、少しだけでも自分なりの表現を丁寧に変えていきたいな、と、思った。
できるかな。
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