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山伏のいる神社に行く旅 #6|神仏に浄化される時間

会社での出来事がきっかけで適応障害になったフォロワーさんと、山伏の方がいる神社に行く旅をした私。

行き先は新潟の八海山尊神社。旅の目的は、特に浄化力が強いと言われる、お護摩(護摩祈祷)を受けることだ。

私たちが神社の参拝を終えると、ますます雨が激しくなった。災害レベルの雨という予報を痛感するほどである。

だが、そのお陰で、神職や山伏の方達と、心が洗われるような、ゆっくりとした時を過ごすことになった。

3時間あまりが経った、午後7時過ぎ。

皆さんが、お護摩の準備をするために席を立たれた。ついに、これから神秘的な体験が始まる。


神仏に浄化される時間

しばらくすると、宮司も山伏の方達も装束姿で現れた。

先ほどまでは別人のような、厳かな雰囲気だ。

御神前には護摩を焚く台(護摩壇)があり、中には塩が敷き詰められている。その中心に向かって、天井から大きな切り下げが吊るされている。

彼らがその周りを取り囲むように座ると、程なくして太鼓が鳴った。お護摩の始まりである。私たちも地元の方とともに拝礼する。

八海山尊神社では、お護摩は、心の迷いを焼き尽くし、悪魔を退散させ、災厄を除き、心の平安と招福をもたらす修法とされている。

護摩を焚くのは、先達せんだつと呼ばれる山伏の方だ。先達とは、人を導く役目を持った方という意味である。

祝詞に合わせて、護摩壇に108本の木の棒を順番に重ねていく。その後、般若心経を唱え、火をつける。

先達が印を結びながら、両手を上にかざすと、火がみるみる大きくなっていく。他の先達や神職も印を結んでいる。

彼らは火の中に神仏の姿を見ているのだ。

火は、まるで意志を持っているかのように、容赦なく燃えさかる。切り下げが火に押されて、激しく舞い上がる。だが、一向に燃える気配はない。

その様子は、何度見ても神々しい。

参列者は、火が燃えさかる護摩壇の前に一人ずつ進む。お祓いを受けた後、その火に直接、護摩木をべる。

護摩木は言わば自分自身だ。降り積もったけがれを神仏に浄化していただく。それが、お護摩なのである。

夢のような時間は、あっという間に終わった。

神仏の火を受けていた切り下げと、その火を受け止めていた護摩壇の塩は、どちらも持ち帰ることができる。

自分の身の回りや心身を浄化したり、守っていただいたりできる、波動の高いものだという。

伝説の山伏・月岡先達がフォロワーさんに、自宅の周りにこの塩を撒くと良いと話をされている。

夜8時過ぎ。雨が降りしきる中、私たちは帰路についた。

フォロワーさんの言葉

2週間後。フォロワーさんからメールが届いた。

自宅に戻った翌日から、顔に吹き出物が出て、口内炎・喉・肩が痛み出したと書いてある。口内炎と肩はまだ痛いのだという。

「きっと、ドロドロの悪いものが出ているんじゃないかと思っています」

そう結ばれていた。

このフォロワーさんは、今回、適応障害になったことだけでなく、親戚や家族のことでも、さまざまな苦しみを経験されてきた。

長年にわたり自分の中に降り積もったものが出てきたような、そんなお気持ちなのだろうか。

一方で、月岡先達とあんなにも一緒の時間があったのに、なぜ過去や苦しみをさらけ出して助言を乞わなかったのかと後悔する気持ちも、率直に書いてくださっていた。

いまだに、どうしてこんな目にあったのだろうと、過去や人を恨んだり、羨ましがったりしている。そのことを、なぜ話さなかったのだろうか。

そう言うのである。

だが、私は、彼女はもう心配ないと思った。

「前に進むことを決めるのは、自分自身しかいない」

そのことを、もうわかっている。あの日、数え切れないほどの会話をして、そう確信したからだ。

あの火の中に神仏がいると信じ、お護摩を受けること。

そのこと自体は、物事を直接解決する力はないように見えるかもしれない。それに、何か教えが授けられるわけでもない。

だが、穢れを浄化することで、本来の清浄な自分に戻り、前に進む力を得る。そのことが、結果として人生を変える。

この有りようが日本古来の生き方であり、知恵なのではないか。

本当は、人に教えを請わなくても、誰もが自分で自分の人生を変えられる。お護摩を70回以上受けてきた者として、私はそう実感している。

人を必要な場所へ連れていく

この旅は、私にとっても大きなターニングポイントだった。

八海山尊神社に伺うようになって、6年あまりが経つ。だが、振り返ると、今まで友人知人を連れて行ったことは一度もない。これが初めてである。

ここに来るようになった頃は、自分を持て余していた。

先を決めずに早期退職をしてしまったこと。不思議な体験をしたこと。霊感とは無縁だった私が、身も心も変わっていってしまったこと。

どうしたら良いか分からなくて、助けを求めて行っていた。

だが、今の私に、そのような焦燥感はない。

以前に比べて経済的には不安定な生活をしている。もちろん、将来への不安を感じることもある。うまくいかないことだってある。

でも、どこか安心している。守られていると日々感じているからだ。

それに、たとえ思わしくないことがあっても、必要があって起こったと受け止める覚悟ができている。

私は、先達のように人を導く方たちには、遠く及ばない。

だが、ようやく、人を必要な場所に連れて行く準備が、少しはできたのかもしれない。そう思うことのできた旅だった。

おわり

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★お護摩の様子など、八海山尊神社については、こちらの記事をぜひご覧ください

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