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〇〇リテラシーが溢れる今、改めて「リテラシーとは何か?」を考えるための概念整理 ーーはてしない修論

私がこのnoteの最初の記事を公開したときに、メディア・リテラシーの定義を下記のとおり書いたところ、noteを読んでいただいた周りの方から色々と反応をいただきました。

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その中で多かったのが、「メディア・リテラシーは、以前は情報を読み解く能力だけど、今はこんなにアップデートしたんだね」ということや、「メディア・リテラシーが社会をデザインするってかなり飛躍しているね」ということでした。

確かにメディア・リテラシーについて説明する際、そこが一番難しい点でもあるのですが、私は自分のメディア・リテラシーの定義を、従来の定義をアップデートしたものでも、飛躍させたものでもなく、むしろ「原点回帰」だと捉えています。

なぜそのような認識の差が生まれるのか、それは、「リテラシー」の捉え方による違いだと考えます。

メディア・リテラシーのほかにも、情報リテラシー、データリテラシー、科学リテラシー、金融リテラシーなどなど、世間には「〇〇リテラシー」が溢れかえっています。その多くは「読み書き能力」を比喩的に用いており、「その分野の知識があり、その知識を活用できる基礎的な能力」という意味合いで使われているかと思いますが、今回は改めて「リテラシー」の意味するところを考えるために、その概念を整理したいと思います。

なお、リテラシー概念の整理については、日本語の文献でもすでに下記のようにまとまったものがあり、アカデミアにおけるリテラシー概念の動向を追うことができるので、このnoteではそれらを参照しつつも、よりリテラシー概念の大枠を捉えるために、主に発展途上国のリテラシー教育の推進に長年取り組んできたユネスコにおいて、「リテラシー」がどのような意味で使われてきたのか、という観点でまとめていきます。

ユネスコにおけるリテラシー概念の変遷

広辞苑で「リテラシー」を引くと、「読み書きの能力。識字。転じて、ある分野に関する知識・能力。」と出てきますが、リテラシー概念の変遷とは、「読み書きができる」ということがどのような状態なのか、に対する考え方の変遷でもあります。

「読み書きができる」という状態について、考え方の違いなど生じないのではないかと思う人もいるかもしれません。日本語でいえば、ひらがなやカタカナ、日常的に使われる漢字を読んだり書いたり出来る状態が「読み書きができる」という状態であり、読み書きが出来る人と出来ない人は容易に線引きができると思う人もいるのではないでしょうか。

しかし、ユネスコにおいて、「読み書きができる」ことの定義は下記のように変わってきました。
なお、下記のリテラシー概念の分け方は、UNESCO(2017)における分類を参考にしています。

読み書き算盤としてのリテラシー

1946年にユネスコが設立された当初、ユネスコはリテラシーを「初歩的な読み書き計算のスキル」、いわゆる3R’s(Reading, Writing, and Arithmetic)、日本語でいうところの読み書き算盤と捉えていました。

機能的リテラシー

しかし、1950年代に入ると、従来の識字教育は単純な文章を読んだり書いたりする程度のきわめて初歩的な読み書き技能の習得で終わっているため、習得した技能を使って実際に日常生活や仕事などに生かすレベルまで到達できていないという問題点が指摘され始めました。

そこで出てきた考え方が、読み書き能力が日常生活のなかで生きてはたらくものとなることに重きを置いた「機能的リテラシー」です。

「機能的リテラシー」の概念は、1956年にウィリアム・グレイが、ユネスコの要請に応じて世界各地の識字教育を総括した調査研究報告書『読み書きの指導』において本格的に登場し、1960年代に入ると、ユネスコの識字政策も「機能的リテラシー」を中心とするものへと大きく方向転換しました。1962年にユネスコの国際識字専門家委員会は、リテラシーを次のように定義しています。

識字能力のある人とは、彼の集団や社会で効果的に機能するために読み書き能力が要求される場合のあらゆる活動に彼が従事することを可能にするための不可欠な知識と技術を身につけている人であり、読・書・算の習得によってこれらの技術を彼自身および社会の発展のために使用することができる人である。

小柳(1998)より重引、太字は筆者

1960年代以降、ユネスコは、初歩的な読み書き能力の普及がそのままでは無知や貧困の克服につながらないとして、識字率の向上が生産性の拡大や生活水準の向上をもたらすことができるという考えのもと、特に成人教育においては職業訓練と一緒に行うことを推奨しました。

機能的リテラシーが、農産物の生産性の向上、工業化の促進、経済流通の進展など、経済的な目的と結びついたかたちで推進される中で、機能的リテラシーは「仕事のためのリテラシー」という意味合いになっていきました

批判的リテラシー

しかし1970年代に入ると、経済開発一辺倒の考え方になってしまった機能的リテラシーに対して、非識字者たちを既成の社会の枠組みへの適応を強いるものだという批判も出始めました。そして、1975年のユネスコの国際識字シンポジウムにおいて、次のような宣言が出されます。

国際識字シンポジウムは、リテラシーを、単に読み書き計算の技能の学習にとどまるものではなく、人間の解放と全面発達に貢献するものであると考える。そのように理解するとき、リテラシーはわれわれの社会とその目標に内在する矛盾に対する批判的意識を獲得するための諸条件を作り出すのである。そして、世界に対して働きかけ、世界を変革し、人間の真の発達をめざすさまざまなプロジェクトを創造する取り組みに主体的に参加していくことを促すのである。・・・・・リテラシーは、人間解放の唯一の手段ではないが、あらゆる社会変革にとっての不可欠な道具である。

小柳(1998)より重引、太字は筆者

この背景には、当時、ブラジルの農村部を中心にリテラシー教育を展開し、その独自の手法と大きな成果によって国際的に注目を集めていたパウロ・フレイレの、後に「批判的リテラシー」と呼ばれるリテラシー理論がありました。

フレイレは、学習者(非識字者)に既存の社会への適応を求めるのではなく、学習者一人一人が社会を変革する主体としての意識を獲得し、よりよく生きていくための行動を起こす手段として文字を持つことを位置付け、学習者が自らの社会に批判的に関わるプロセスの中で文字を学ぶ方法を開発しました。

その方法とは、学習者と「コーディネーター」と呼ばれる教育者が、学習者の置かれている状況や身の回りのことについて対話し、その対話の中で出てきた学習者の言い回しの中から学習の起点となるようなワードを選んで、文字化して提示します。そして、学習者たちはそのワードについての自分の経験や思いを対話していきます。
学習者の言い回しの中から出てきたワードも、抜き出されて文字化されることで、無意識に使っていた言葉が浮かび上がり、対象化されます。

そのようにして対象化されることをフレイレの教育実践では、「世界の意識化」と呼びました。文字を獲得するというのは、単に読み書きができるようになるということではなく、文字という記号を通じて社会を捉えることができるようになることを意味しているのです。

フレイレによって、リテラシーを学ぶことは文字を覚える学習から、文字を使って世界との関係性を取り結ぶ教育に変わったのです。(山内 2003)

社会的実践としてのリテラシー

フレイレの学習者の状況に根ざしたリテラシー実践は、その後1980年代に入ると、リテラシーに対する単一的・固定的な捉え方をエスノグラフイ一等の手法を用いて実証的に批判する研究が次々と現れ、1990年代には「新しいリテラシー研究」として層としてのまとまりを持ち始めました。

「新しいリテラシー研究」が提唱する「社会的実践としてのリテラシー」の基本的な考え方は、リテラシーのあり方や意味づけは、社会的に構築されるということでした。その考え方のもと、一般的にはリテラシーを身につけていないとされる人々も豊かなリテラシー実践を行っており、リテラシーは識字と非識字の二元論ではないということが指摘されています。
学習者の状況に根ざしてリテラシーを捉えるという点はフレイレと共通していますが、「新しいリテラシー研究」の代表的論者であるストリートは、フレイレのリテラシー教育を通して意識化を図ろうとする態度は、リテラシーを身につけていない人々は社会変革の主体になれないものとみなした、識字者と非識字者に分ける二元論的な考え方だとして批判しました。(河内 2012)

どういうことかというと、リテラシーの定義が普遍的であるかのように捉えると、その背後にある、識字者から非識字者に対して教育をし、識字を前提とした社会への参画を求めるという文化的イデオロギーが覆い隠されることを課題としており、リテラシーの定義は普遍的ではなく、あらゆる人の日常の営みの中にそれぞれのリテラシー実践があると捉えることで、識字者と非識字者というイデオロギーを乗り越え、一人ひとりの学習者が真に必要とするリテラシーを身に付けることが必要であるということです。
そして、誰かによって決められた「ここまでの能力が社会に参画するために必要ですよ」ということをその基準に満たない人に強いるのではなく、むしろ、「ここまでの能力が社会に参画するために必要ですよ」という基準のある社会構造自体に疑問を呈し、問題の本質に迫ろうとする態度でもあります。

そのような「新しいリテラシー研究」の考え方をユネスコは反映させ、下記のようにリテラシーを位置づけています。

リテラシーに普遍的な定義は存在せず、リテラシーは文化によっても言語によっても時代によっても意味が変わりうる多義的なものである。そして、リテラシーの獲得と活用は、個々人で完結するものではなく、社会の中で構築された関係性やコミュニケーション様式によって規定されるものである。

UNESCO(2004)より引用、訳は筆者

そしてリテラシーの考え方を次のように示しました。

リテラシーとは、様々な文脈に応じて、読み物や書き物を駆使して、識別し、理解し、解釈し、創造し、伝達し、計算する能力である。
リテラシーは、個人がそれぞれの目標を達成するための、あるいは知識や能力を伸ばすための、またはコミュニティやより広い社会に参画するための、学びの連続性を持った概念である。

UNESCO(2005)より引用、訳は筆者

上記の定義は2017年のユネスコの報告書でも用いられており、現在のユネスコにおけるリテラシーの捉え方と考えることができます。

まとめ

ここまで、ユネスコにおけるリテラシー概念の変遷を見てきましたが、基礎的な読み書き算盤の能力だったリテラシーが、仕事をしていくために最低限求められる読み書き能力となり、社会を変革するための道具となりというように、各概念における課題を乗り越えつつ、発展的にその捉え方が変わっていきました。
そして今では、特定の目的のための能力ということ自体が見直され、絶対的な基準はなく、それぞれの目標を達成したり、それぞれのコミュニティに参画したりするための能力とされ、一人一人が主語となる捉え方がされています。

「社会のより面白いあり方をデザインする」という私のメディア・リテラシーの定義も、リテラシーを、一人一人が社会の枠組みに当てはまるために身につける能力と捉えるのではなく、むしろ枠組み自体を疑い、私たち一人一人を軸にリテラシーを捉える考え方です。
そのように視点を変えると、世の中に溢れる「〇〇リテラシー」の捉え方も変わってくるかもしれません。

なお、今回は触れられませんでしたが、メディア・リテラシーは、リテラシー研究の中でも、特にパウロ・フレイレをはじめとする批判的リテラシーの影響を受けています。メディア・リテラシーと批判的リテラシーのつながりについてはまた別の機会にまとめたいと思います。

参考文献


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